彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

戯言「昔のこと」

最近、昔を振り返っている。つくづく、生き続けるというのは、罪を重ねることのように思う。そして、僕はその罪を告白しなければ気が済まないような性格でもあるらしい。梶井基次郎のノートにも似たようなことが書かれてあったような気がする。どうしようもない性格なことは確かだろう。

 

最近、気づいたことがある。僕は知らないことが恐ろしく、知ることが嬉しいらしい。どうも生活に根付いているようだ。知らないものを知ることで、安心や喜びを得られる代わりに、知らないことで悩むと恐怖を感じたり、無理やり理解しようとするらしい。過去が関わってきた人たちには、その性格でとても苦しめてしまったように思う。相手が心を開いていると感じられなければ、不安定になっていく。そのことで何度も罪を重ねてきたように思う。

 

だが、これはもう性格というよりも性質の問題だと思っている。諦める、というほどの後ろめたさもない。ただ、本当は僕の不安定さが引き金に過ぎないというのに、難癖をつけて自ら大切なものを手放してきたのだろうなと感じる。恐怖から逃れたいからなのだろう。そのたびに、小説を書いては清算されようとしている。これでは破滅型の人間だ。もし、死後に天国地獄があるのなら、僕は間違いなく地獄なのだろう。

 

過去を振り返るのは、あまり良いことではないらしい。ただ、罪の自覚が強まるばかりだ。しかし、まだ死ぬ気もないので、生存して罪を重ねようと思う。それこそ、原罪ではないか。

練習1『自動車学校の様子』

日光の下の朝は澄んでいた。私はいつも自転車の物置小屋のベンチに座っていた。今日も裏の廃屋から発情期の猫がひっきりなしに交尾を求めていた。部活動の練習に励む掛け声が、神社のちょっとした杉林の向こうから聞こえてきた。眼前の教習所はまだ営業時間前であったが、練習コースを眺めているだけで不慣れで穏やかなエンジン音が流れてくるようだった。

  ふいに一羽のカラスが鳴いたかと思えば、反対側からけたたましい小鳥の声が響いた。山々の葉は擦れ合い、微細な緑色の隙間の暗がりがぽつぽつ揺らいでいた。教習所は山の麓にあって、入り口を見下ろすと海と街とが展望できた。排水溝にしがみつく蛙や、湖面に突き出した幹で日光浴する緑亀、散歩する私に驚いて逃げていく畔のもぐらなど、大抵私たちは眠気が覚めるか次の講習まで、これらの風景をぼんやり見ていたのである。

やったぜ

トイレの修理を頼むというのは、自罰的な気持ちになりがちである。私はこの数時間、わずか40分ともかからない時間を過ごすために、全力で掃除に勤しんだ。大抵私のような人間は、部屋を前衛芸術にしがちなのである。修理屋にチクチクと小言を言われながらも、それ以上に戒めの気持ち(つまるところ、下手にタンクは触るべきではない)に苛まれ続けていた。しかし、実際20分程度のことだったのだ。これならなんとかなるっていう話だ。生活費がなんだ。適切な場所に排泄できることがどれほど素晴らしいことか。自由とは不自由な時に願うものなのだ。俺は勝ったぞ。久々の更新がなんだ。私はこの感動を発信するのに適したSNSを持たないのである。それなら書き殴るしかあるまい。やったぜ!!  これで俺はありったけのトグロを巻けるってもんよ!!  しかし、高えなぁ。やったぜ!!

感想『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』

本作のような作品は、評価する上で極めて個人の経験に左右されがちだ。というのも、本作で最も力を入れているであろう箇所が「人の死をどれだけ幻想的に表現できるか」にあるからだ。

  先に書いておくと、本作はあまり楽しめなかった。そのために、褒められるようなことは書けない。この感想は、その前提の元に読んでもらいたい。

 

  「幻想」と書いても、人それぞれの「幻想」がある。極端な例を挙げるが、フィンチ家における幻想と、泉鏡花の幻想と、オディロン・ルドンの幻想は異なるものだろう。

  幻想はただ不思議な風景を描くものではない。なんらかの意図を隠すために用いる。フィンチ家の幻想は、虚構性を意識させることで、どのように各々が死んでいったのかを隠している。漫画やカメラの他にも、変身や妄想などを通して死の過程を表現している。どれも「本当はどのように死んだのか」が分からないままだ。ただの不幸の連続だったのかもしれないし、国柄をあまり知らないので何とも言えないが、土着的なもの(その土地の呪いだとかの)のせいなのかもしれない。いずれにせよ、その辺りが判明しない以上は、あまり考察の余地が感じられなかった。なぜフィンチ家の死を虚構によって偽装するのか、が提示されないと、「この死の過程の演出そのものを楽しんでください」と捉えられてしまう。

  肝心なその「死の過程」についても、中々素直に楽しめなかった。まず前提に、操作キャラクターが「フィンチ家を探索する主人公→死んだ人物の回想」と移っていくパターンが多く、プレイヤーからすると、そのキャラクターの死を一つ一つ鑑賞しなければならない。「死」についての価値観も、個々人に差があるものだと書いた上で、やはり悪趣味に感じざるを得なかった。赤ん坊が浴槽で溺死する場面などは、プレイヤーがカエルのおもちゃを操作して湯を出し続ける必要がある。製作側からすれば、一本道の回想録を飽きさせないための工夫だと思われるが、プレイヤーからすれば、先を見るためには赤ん坊を溺死させなければならないのである。

  また、その後の展開も不可解だった。湯船に浸かり切った赤ん坊の視界には、水草が生えた川(たしか川?)が広がっている。そのまま泳ぎ回り、排水溝と思われる光の穴に吸い込まれていく。この間に流れるナレーションが赤ん坊の父親のようなので、父親の空想なのか、赤ん坊の空想なのかが曖昧だった。この曖昧にさせる点もまた、考察の余地を失くしていく。プレイヤーからすれば、謎、つまりは「奇妙な屋敷」における「奇妙」を知りたいのだが、基本的には投げっぱなしなのである。このような奇妙なことがあった、このような奇妙な表現をしてみた、というのは十分伝わるのだが、何故そのような奇妙な物語や表現なのかの説明が不十分なために、前述した「この死の過程の演出そのものを楽しんでください」としか受け止められなかった。僕には悪趣味に感じた。

 

  リアルであるかないかは、物語の説得力に繋がる。このリアルとは、ファンタジーと現実などの世界観の違いではない。ファンタジーであれば、それぞれの地方や種族や文化を描いたものは、それだけの説得力が生まれてくる。僕らは人種も言語も文化も、地方や国ごとに異なることを知っているので、このようなハードファンタジーの世界にもリアルを見出すことができる。

  その上で書くと、フィンチ家の家は構造から出鱈目である。部屋中に(それこそ廊下にもどこにでも)本が置かれており、それぞれの部屋の扉には享年が貼り付けてある。まるで墓のようだ。享年付きの扉など縁起が悪そうだ。これはゲームだから仕方ない、という考え方もできなくはないが、このゲームは一本道な上に死の回想が展開されるだけなので、説得力を持たせて謎を強めなければ、考察の余地も生まれず退屈になってくる。ほとんどの人物は回想前に享年を知っているので、回想そのものの刺激が薄れているとも言える。刺激という意味では、悪趣味にしても振り切れていないように感じた。

 

このような感想になった。本作は家や幻想のビジュアル面そのものに関心を持てなければ苦行になるかもしれない。マジックレアリズムやシュルレアリスム、幻想や実存主義、あるいは、寺山修司などのアンダーグラウンド2001年宇宙の旅だとかインターステラーだとかのSF、メタが主題のゲームとしては「The Stanley Parable」や「ドキドキ文芸部」などなど、諸々の作品群にあまり馴染みがない方は良い刺激になるかもしれない。

 

とはいえ、『変身』や『田園に死す』ぐらいは抑えておこうぜ。

  

 

 

 

 

 

 

 

雑記「虚構が勝った日」

小田急やら京王線やらで似たような事件が起きた。どちらも動機は社会的弱者という意識から来るものだと思った。これが僕にとってはなかなか衝撃的なことだった。

  僕の世代はまだギリギリネット用語を実際に言葉に発したりして交流することに抵抗感があったり、そのようなコミュニティをオタク的なものだと思っているのだが、いよいよ、下の世代になると抵抗感もなくなってきて普段から使うようになってきたのではないかと感じている。

  その典型的な例として、陽キャ陰キャというものがある。細かな定義は知らないが(このような言葉は相手との理解を深めるために使うのでもないので、定義づけすることが無意味かもしれないが)、概ねは社会的強者と社会的弱者を意味しているように思う。社会的強者とは、スクールカーストや年収や学歴、あるいは、外交的か内向的か、コミュニケーション能力や性的魅力の差などなど、あらゆる差異において、「陽キャと発している人間から見て」成功しているように感じるものや、喧しいものを陽キャと定義しているように思う。陰キャというのは、その逆というイメージだ。陽気と陰気の差とでも言えばいいのだろうか。

  こうした定義づけが曖昧な言葉は、最終的に使う人間ごとに定義が変化している。これは危険が伴うように思う。とりわけ、陽キャ陰キャという言葉は差別意識的な文脈で使われやすいように感じるからだ。講義室でうるさくしている連中を見て、陽キャどもうるせえよ、などと思ったりすることもよくあるのではなかろうか。どのような使われ方をしているのか、細かく知っているわけではないが、基本的にこの陽キャ陰キャは、ブスやデブとそれほど変わらない性質の言葉だろう。

 

この記事は二週間ぐらい前にここまで書いて止めていた。近頃益々似たような事件が増えてきたようだ。僕が不安に思うのは、こうした事件の要因が「陰キャ」「陽キャ」といった差別的な言葉が平然と使われている世の中だからではないか、という考えであると同時に、この概念が様々な物語に織り込まれているからではないか、ということだった。そういえば、ジョーカーの映画が公開された時、社会的弱者がジョーカーの真似をする可能性もあると警告した評論家がいたようにも思うのだが、まさにその通りになってきたような気もする。連休が恐ろしい。

雑記「どうでもいいこと」

どうでもいいことで夢中になれるというのは、誰だって当然のことだ。そもそも、「どうでもいい」の判断が主観的にしか決められない時点で、ある意味では誰しもが「どうでもいい」ことしかしていないとも言えるわけで。

最近もまた、僕にとって「どうでもいい」ことでとても盛り上がっている。古い慣習のようなもの? あるいは、呪縛的なもの? おそらくは大半の方々にとって、実生活上なんら影響を与えなさそうなもので、世間は賑わっているらしい。その盛り上がり方を詳しくは知らないものの、なんだか昼ドラの一幕のようであったり、ここぞとばかりに思想をひけらかす場となっているようでもある。ほとんどの人は当の「どうでもいい」問題が気になるのではなく、他者との一体感を楽しんでいるんじゃないかなどと考えるのだが、そうでもないのだろうか?
極端なことを言えば言うほど、物事を考えられない方々にとっては都合がいい。あらゆる作品でもそうだ。太宰治の作品は気持ち悪い、と言えば、大体のファンは納得されるだろうし、ファンでなくても理解しやすい。内的焦点化やら、メタやら、文学史上の位置やら、そんな細々とした話をしたところで、ファンでさえついていけないだろう。あくまでも、多くの人々が好むものはアイドルではないか。
今回の当人らはまさにアイドルなわけだ。生まれを選べないというのは残酷なものだ。道徳的な価値感に強迫されているような方々にとっては、生まれることを喜びと受け止めがちかもしれないが、やはり境遇の差は必ず生じるものなわけで、この差に何かしら思うことも当然だろう。生まれなければよかった、などと考えることも当然なのだ。
僕としては、今回の騒動で多くの人の価値観に少なからず変化が起きてはくれないものかと思ったりしている。彼らがどうなろうと、世間でどのように盛り上げられていようと知ったことではないが、その後の僕らの精神性のようなものに少しでも変化があるといいような気もする。といっても、何も変わらないのだろうが。

感想「最近のロボット作品」

なんやかんや、『境界戦機』『メガトン級ムサシ』『サクガン』の1話を見てみた。それぞれの感想を雑に書いておこうと思う。ムサシと境界戦機は2話以降も見てみたいところだ。マブラブ? は、食わず嫌いってほどでもないが、あんまり興味がない。ただ、ロボットのデザインは格好いいと思う。

・サクガン
僕にはどうにも合わなかった。劇くさく説教くささが強すぎた印象がある。主人公の女の子に冒険をさせようという圧力が強すぎたのだろう。台詞回しも、よく言えばアニメっぽいと言えるし、悪く言えばオタク臭く感じた。こうした印象と、舞台の妙なオシャレ感がどうも苦手だ。こういうノリに慣れている方や、好きな方は楽しめそうだ。1話の最後にロボットが出てくるので、動きやデザインは謎だった。なんだかメイドインアビスみたいだな、とは誰しも思ったのではなかろうか? 世界観どころか、主人公の女の子も割と似ていないか?

・メガトン級ムサシ
オープニングで「ウホホホホ」と変な笑い出てきたが、内容はレベル5なのに結構重たく(他のレベル5作品をそれほど知っているわけではないのだが)、ノリがゲッターロボなどのスーパーロボット風味なので、これから熱い展開になるんだろうなと思わせてくれた。ロボットのデザインは鉄人28号とかのレトロな雰囲気があるが、1話では出撃シーンで終わるのでどのように動くのかは謎だ。オープニングはともかく、なかなか面白くなりそうだ。いや、別にオープニングが嫌いなわけではない。電波ソングすぎるのだ。

・境界戦機
あんまり知らないがコードギアスのような設定だ。とはいえ、1話は初代ガンダムを意識しつつも、スーポーロボット系のノリの相棒が出てくる辺り、程よくコミカルさも加えたリアル系ロボットという印象だった。ロボットの設定も細かく、成長物語としても、SF作品としても楽しめそうな気がしている。他の二作品よりも好みだ。ロボットのデザインはよく動けることを意識しているのか、不思議な関節になっており、王道のようで癖がある。放映前はあんまり格好いいと思わなかったが、動いているところを見ると、あれ? 案外格好いいなと思わせてくれた。また、もしかすると、ロボットはあまり空を飛ばないかもしれない。近頃では珍しいのだろうか? 他二作品にも同じことが言えるのだが。