彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「矛盾」

*多分先週書いた記事

人は早々変わらないものだと思っているが、何故なのかと尋ねられると、うまく答えられそうもない。少なくとも、自分は色々な経験をしてきたと感じているが、それでも根本の部分はそう変わっていないような気もする。我慢するかどうかの判断はするようになったと思うし、文学に価値を置くというのも後発的に得られたもので、やはり人生に大きな影響を与えてきたと思う。
変わらないというのは、元来の性格の部分だと考えている。僕は人の発言に矛盾を感じると(もちろん、だからと言って僕が矛盾しないわけではない。ただ、意見を述べようとするときなどは、せめてその会話中に矛盾を起こさないでもらいたいと思う)、矛盾の意図を考えようとする。僕はそれほど他人の事情に首を突っ込みたいのでもないので、単純にその矛盾の意図に強い自己愛だとかが関わっていると考えがちだ。自己愛が強い人の場合、会話を続けても肯定感を他者に求めているに過ぎないので、相手の自慰行為に延々と付き合わされるような感覚になる。それが苛立つのだろう。もちろん、本人の中では矛盾していないつもりでいる、という場合もある。この場合は、相手の価値観を聞いてみると面白かったりもする。
こういうことをことを書くのも、つくづく僕にしてみれば、どうかしている話を最近聞かされがちだからだ。要するに愚痴というわけだ。

ワクチンを打ち、副作用で寝込む。その間に久々に軽く『屋根の上のサワン』を読む。思えば、このサワンにおける主人公「私」も自分に必死な状態ではあるのだが、あくまでも必至に振る舞おうとする様子を意識的に語っているあたり、とても冷静な調子だ。一人称の面白さというのは、結局この一人称がどのような人間を演じているのかにあるわけで、昨今の分かりやすいブームとは真逆の分野なのかもしれない。

感想「シン・エヴァンゲリオン」

シンエヴァは見終わってなんとも言えない気持ちになった。直近に観た作品がターンエーやGレコなわけだが、それと比べると、ノリが全く異なるものだった。良い悪いというよりも、楽しみ方が異なるのだろうと思った。単純な好みで言えば、特に何とも思わなかった。「なんとも言えない気持ち」というのも、この無味無臭な印象のせいだ。とはいえ、二時間半をそれほどダレずに観れたので、良い作品なんだろうと思う。
本作を考察できるほど良い鑑賞者にはなれないが、少なくとも、シンエヴァはメタを絡めようとしていた。このメタは主に演出の面で強く現れており、そのまま成長物語に繋がっている。メタ意識は俯瞰的に物事を捉えようとすることと同じだと思うので、主人公を最終的に成長させようとするなら(かつ、求められているエヴァンゲリオン感を出すとすれば)、こうした演出は必要だったのだろうと思う。この成長を観客にも促すために説明的な会話が多かったのだ、と考えるのはやりすぎな気もするが(これまであまりにも設定の謎を盛り過ぎた結果とも受け取れるからだ)、どちらにせよ、エヴァを終わらせるつもりなのだろうと思った。
私小説的な評価をされがちな理由も、なんとなく理解できた。というのも、良くも悪くもメタの部分が「映画」あるいは「アニメ」という虚構を意識させ、その作り手も意識せざるを得ないからだ。この点は、僕は庵野秀明エヴァンゲリオンの熱狂的なファンではないので割と気にならなかった。
逆に気になったのは台詞回しだ。本作の会話は説明が多く、良く言えば、観客に配慮していた。ただ、悪く言えば、リアルさに欠けている印象を受けた。(※何も知らないシンジに村のシステムを説明する場面などは、シンジと客の知識が同等なので、それほど違和感なく楽しめた)これは説明だけでなく、全体的に繰り返される言い回しにも感じた。セルフパロディな言い回しも多かったので、その辺も少し恥ずかしくなった。ループというのが作中の要素にありそうだったので、それを意識したということかもしれない。また、前半は少し説教臭く感じた。
後半部になると、台詞以外にも細かなツッコミどころは多いのだが、前半部ですでに本作がリアルさを軸に置かれていないものだと感じたので、派手な演出になんとなくすげえなぁぐらいの楽しみ方をした。ヘルシングやゲッターを観た時と似たような感覚だ。細かいことはともかく、盛り上がれば全て良しという具合だった。それで二時間半だれずに観れたのだから、十分面白かったのだろう。
本作をどのような感覚で楽しめば良いのかが、どうにも難しく感じた。旧劇の方が緊張感や映像は好みだが、その好みも観た当時の精神状態が影響していたのかもしれない。それに新劇は「旧劇の後に作られた」ことを抜きに鑑賞することはできないので、旧劇で受けた衝撃を抜きに評価することも難しい。何より難しいと感じたのは、本作をエンタメとして観るか、芸術として観るかだった。台詞回しや心理描写はあくまでもエンタメだが、映像の面白さは芸術なのか? などと適当に書いてみたが、ある程度観客側が想像しなくてはならないような細かな台詞回しはあまりなかったので、基本的にはエンタメなのだと思った。
元々「エヴァンゲリオン」の何が面白かったかを振り返ると、ハッタリを効かせて盛り上げるところや、エログロや、なんだかんだ成長物語に持っていく簡潔さなどだろうか。そういう意味で、今回もそれほど大きくは変わらなかったような気もする。さすがに慣れてきたのかもしれない。

雑記「グレー」

もしかすると、知能指数に問題があるほど(厳密にはグレーゾーンと言われる類ほど)本能的な部分が強まるのかもしれないと思った。この本能というのは、三大欲求についてというよりも、自尊心のことなのだが、他者との比較によって、自己確立を目指そうとする傾向が強そうだと思った。
大学生の頃のいわゆる後輩と呼べる人にも、似たような傾向があった。その方は劣等感が強く、その劣等感を小説にすることで自己確立を果たそうとしていたようだが、その内容は成功者や親族への嫉妬や憎しみ、あるいは、社会的弱者である自分をひたすら説明するという、あまり面白みのあるものではなかった。感情が先行されすぎていて、というほどではないまでも、あまり文学的に技巧や表現を細かくすることもできなかった。ただ、自分を受け入れて欲しいという思いだけが一貫して作中に現れていた。
その方はそれまでの様子を見たり聞いたりした限り、また、作品の質を考える限り、どうやらパーソナリティ障害だったように思う。あまりいい噂は聞かなかったものの、例えば、自殺でもされたら教授方が可哀想ではないか、と思ったので少し面倒を見ることもあったが、連絡先を消しては戻すなどの若気の至りが目に余るので、結局自然と連絡を取らなくなった。僕はそうした様子が、文学に無礼だと思ったのだ。これはこれで大概だ。
と昔話を少し書いてみたが、似たような方と最近接している。この方は身体的に劣っていたり、体力的に劣っていたりする箇所が多いためなのか、やたらと人に自分が優れていることをアピールしようとする。「自分は良い服を買うが、他人はそこまで良い服を買わないために、自分はある意味生意気だ」などと言われるのだが、こうした時の反応はなかなか苦労する。話を聞かなければならない立場なので応対はするものの、下手に刺激してもいけないので流しておくのが無難なように感じている。
自己確立の方法というのも細かなことは分からないのだが、他者との比較は誰しもあることで、その比較がやがて無駄になるとか、比較しても自分は自分でしかないことを認めていけるようになるだとかが、自己確立への道なのかと思うのだが(他者との優劣という考えを超越していく必要があるのだろうか)、自分が他者との優劣によって確立されている方ほど、他人に依存したり、虚栄心が強まったりするような気がする。調べれば分かることなのだろうが、それはまたおいおいやろう。
ともかく、このような種類の方々は相手にするのが疲れる。何かと気を使うので精神をすり減らしがちだ。これが大学の後輩のような、簡単に縁を切れる方であればどうでもいいのだが(さくっと切れるのだから今は便利なものだ)、そうではない相手となると、また話は変わってくる。
僕は何となく、今の若い人たちがここまでとは言わないまでも、このような性質を持ちがちなのではないか思ったりする。SNSなんかのアピール合戦と同じことで、意図の見えやすさの違いぐらいしか変わらないような気もする。

雑記「なんぎなこと」

ファンタジー作品というものを厳密には書いたことがない。細かな定義は難しいものの、幻想とファンタジーは全く異なるものだと考えている。そもそも、どの部分で分類するかという意味でも、ファンタジーは舞台設定に終始するだろうし、幻想はより広範囲な意味合いを持つことだろう。現実を舞台としながらも怪異が出てくるだけで幻想となることもあれば、語り手が不思議な視点で物事を語りながらも同時に一人歩きし始めても幻想といえる。つまるところ、泉鏡花も幻想であれば、マジック・シュールレアリズムも幻想だ。
さて、ファンタジー作品を作ろうと考えたことはあるのだが、結局土台となる概念は既存のものに寄らざるを得ない問題が付き纏い、書く気もなくなっている。エンタメ作品を一つぐらいやってみたいと思っていたが、使われている設定を用いるというのはなかなか楽しく作れる気がしない。例えば、魔法というものがその世界に存在するとして、どの程度普及されているのか、また、普及の度合いによって文明がどの程度進んでいるのか、という問題がある。これがエンタメのお約束とでもいうのか、ビジュアルで好まれる作風だと度外視されていることも多い印象がある。
詳しい設定を知らないので印象の話にならざるを得ないが、例えば、ドラクエにおける文明の発達度合いは? つまり、火や氷や雷を出せるというのに、街は貧相なものだ。機械が必要ないとしても、その代わりとなるもの、魔法によってもう少しハイテクになりそうな気がするのだが。
スカイリムやウィッチャーなどは魔法自体が嫌われているので、生活する人々にとっては無縁なものとなっている。そうなると、魔法自体が小さなコミュニティでしか使われず、問題を起こしたくもないだろうから、貧困に苦しむ村が出てきても何もおかしくは感じない。貧困になるほど排他的になるということだろうか。
もちろん、このリアリティーの差でドラクエの方が劣っていると言いたいのではない。スカイリムやウィッチャーの方が好みには違いないが、ドラクエは細かな設定を省いた上で(デフォルメ? デフォルト?)、あくまでもプレイヤーを中心に世界が動いている。魔法はゲームシステム上の戦略性や利便性を高めるためのもの、ぐらいの認識なのかもしれない。ある意味、メタに近いかもしれない。
ただ、このデフォルメされた世界観というのは、文章では表現するのが難しそうだ。あくまで小説は受動的な(文章を追う)ものであって、能動的に楽しむことはできないので、こうした突っ込みどころと言える箇所は作品の粗に感じてしまう。幻想的、というよりもシンボリズムな作品であれば、こうした粗と思われそうなところも、一つの役割として捉えやすいのだが、そういう作品はエンタメにならない。頭をこねくり回しながら読むタイプのものだ。
また、最近考えたのは言語の問題だ。日本語でファンタジーを語るというのも、エンタメに慣れた方々すれば何とも思わないことだろうが、どうにも「日本語に訳されたもの」という体が欲しくなってしまう。これは僕があくまでも現実を土台として作品を考えるためなのだが、この辺もお約束として流されがちな問題だ。アニメなどは特にそのような傾向があるものの、人間をデフォルメしたデザインという意味では、例えば「アムロ・レイ」が日本語を喋っていようとまったく違和感がない。僕が慣れてしまったのかもしれないし、デフォルメされることで現実世界とは切り離されたものと認識されやすいのかもしれない。
とここまで書いてみたが、ハードルが高すぎるような気もしてきた。メタを意識しすぎると、虚構の約束事に疑問を呈していくことになるということだろうか。娯楽と芸術の違いは、メタの使い方や捉え方にあるのかもしれないなどと書いておこう。

雑記「ウィルス」

昨今は某ウィルスのせいで世の中荒れ気味に感じる。いわゆる今時の若者が〜という人もいれば、アジア人差別の話もあるし、世間から注目を浴びやすいためか、アーティストやユーチューバーの飲み会などで盛り上がっていたりする。どれもこれも根本的には某ウィルスのせいには違いないのだが、仮にウィルスが収まったところで解決する問題なのかは謎だ。
最近どうも、いわゆる教祖的な位置にいる方々の化けの皮が剥がれてきた感がある。化けの皮と書くと悪い印象を与えるかもしれないが、人気と商売は切っても切れないと思うので、ある程度人前では演じようとするものだろう。その上で言えば、ストレスを抱えがちなためか? あるいは、炎上することで記憶してもらうためか? 目的はよく分からないものの、少し浅はかなような言動や行動が見られる気がする。おそらく、世間的には我慢をしなければならない時期なので、我慢している側からすると、好き放題できる人々に嫉妬心や反規律(極端に言えば、悪人のような?)印象を抱きやすいのかもしれない。我慢する側がバカを見るというのが腹が立って仕方ないなど。
僕は元々人混みを避けたがる性格なので、この時期に我慢を強いるというストレスは抱えていない。とはいえ、遠距離の恋人に会えないのはどうにもこうにもという話で、同じような人々多いことだろう。もう半年以上も会えていないのだ。ずいぶん模範的な生活をしていると言えそうだ。
それにしても、こんな世の中で生活していくためにはどのようにすればいいのか、などと考えたりしていると、結局のところ能動的ニヒリズムに生きていくことしかないような気もするのだが、それを人に伝えたところで、何を言っているのだろう? と思われるだけだろう。そういうものは作品で表現していくしかなさそうだ。

雑記「王道と白米」

昔、恩師が「米はまずいからこそ毎日食べられる」と言っていた。「まずい」というのは、おそらく言い過ぎで、厳密には味が薄いといった意味になるだろうと思う。
これは意外と虚構においても重要なことなのかもしれない。大量生産される音楽や物語にある既視感とは、まさに米と同じものではないのだろうか。
王道の面白さとも似ているものがある。父は某海賊漫画などが好みなのだが、何が面白いのか聞いてみると、安心して見られるところだと言っていた。僕にはその「安心」を「退屈」だと感じてしまうので、そのような楽しみ方があるものなのかと感心した記憶がある。この「安心」こそ、白米的な薄味さではなかろうか。
保守的と革新的との違いとも言える。こればかりは作品に何を求めているのかの違いかもしれない。白米の例えをしてみたが、王道にしても様々なジャンルがあるわけで、日本なら白米に相当するものが、世界の国々ではまた異なるものだろう。絶対的な価値観というのは、ほとんど存在し得ないので(仮に絶対的な価値に近いものがあるとすれば、それは「生命」や「太陽」などの生存に関わるものではないかと思ったりする。少なくとも、芸術の分野では存在しないだろう。存在しないからこそ作りたいと思えるわけで)、日本における王道が何かを考えてみるのもまた面白い気がしてきた。よく日本の流行りものはガラパゴスと言われたりする点からも、良くも悪くも独自の王道がありそうだ。
ゲームなんかは特に不思議だ。世界的に知名度が高いものも、日本での認知度は低い。例えば、LOLにしても、その前身にDOTAがあるわけで、そのDOTAにしても、Warcraft3のmodだということを知っている人は少なそうだ。そもそも、LOLを知らない層もまだまだ多いかもしれない。逆に世界的にはドラゴンクエスト知名度は低いと聞いたことがある。たしかに元々TRPGもあれば、ウィザードリィなどのゲームもあったのだから当然なのかもしれない。
音楽にしても、同様のことが言えるのだろうか。演歌ときて、歌謡ときて、ポップスとなって、今はボーカロイド風の曲が増えているように思う。これもまた、ガラパゴス的なのかもしれない。今は分からないが、アイドルグループの楽曲などもまさに日本独自の人気だったと記憶している。べイビーメタル?などは世界でも人気があったらしいが。
こうした王道を知ったからといって、それを実践できるほど器用でもないのだが、単純に文化的な?歴史的な?違いを感じられるのは面白そうだ。まあ、だからと言って今更海賊漫画や鬼退治?の侍漫画を読むだとか、「やかましいわ」を聞いて、所謂今時を知りたいとまでは思わない。結局のところ、僕が退屈に感じないための工夫という話なのだろう。白米もよく噛めば甘さを感じられたりする。飽きているのに食べざるを得ないときは、甘さを感じようとしてみたり、色や形の違いを感じてみたり、あるいは、一粒の食感を確かめてみたりなどして、わずかな変化を楽しもうとする。

雑記「主観だからこそ」

もし、自分の人生が不幸だと考えている人がいれば、それも一つの答えだとしか言えない。結局のところ、幸も不幸も主観によって決められるものに他ならないので、当人がそう思う以上の答えが存在しないのだ。
誰かによって決められるものでもないのだから、折角だから不幸と考えるよりも、幸福と考えた方が都合がいい。不幸だと思い込むほど、自分に必死になりやすくなるだろうし、何かと幸福そうに見えるものを妬んだり憎んだりしやすくなるだろう。他者との比較は、時には必要だが、大抵は必要ない。
たた、そんなことを言われてもそう簡単なことではないわけで、実際に自分が幸福だと感じなければ、あるいは、他者との比較そのものを否定する考えに至る経験をするだとかしなければならず、いずれにせよ、根本的には肯定感が必要なので(この肯定感というのも面倒くさい。自分に対して肯定感だけなら、結局本質はそう変わらない気もするのだ。もっと大きな範囲で肯定してやりたいところだ)時間がかかることだろう。
比較しようもないことなのだが、流行りものや同世代、もしくは、若い世代の好まれているものを考えると、本質的な問題の解決ではなく、一時的な慰めに終始している印象がある。比較するしないで言えば、どちらも大切なことには違いないので、何かと均衡な状態が大切だと思うのだが、これはどう伝えればいいものか難しい。共感という意味では、青臭い方が理解しやすいことは確かなのだ。
均衡の大切さよりも、劣等感や嫌悪感に同情するような作品は多いのかもしれない。現代社会で形成されてきた精神性? それだけ大人も子供も余裕がなくなってきたということかもしれないし、多くの人々にとって慰めはやはり必要わけで(もちろん、僕も必要なのだ)、虚構の中ぐらい共感して慰められたいと思うのも当然だろう。ただ、そうしたものは若年層に受け入れられるものだと思っていたのだが、その若年層に二十代も含まれる世の中になってきたのだろうとは思う。20から29歳だ。僕もまだ若年層なのだ。
以前友人から聞かされた昼ドラと似ているように感じる。昼ドラは主婦層に向けて作られているために、家事などで忙しく一話見逃した場合を考慮して、何話から見ても大体の流れが分かりやすく作られているとのことだ。音楽も歌詞が分かりやすいほど受け入れやすいことは確かだろうが、歌詞の内容のせいで、僕にはどうも世知辛い。