彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「虚構が勝った日」

小田急やら京王線やらで似たような事件が起きた。どちらも動機は社会的弱者という意識から来るものだと思った。これが僕にとってはなかなか衝撃的なことだった。

  僕の世代はまだギリギリネット用語を実際に言葉に発したりして交流することに抵抗感があったり、そのようなコミュニティをオタク的なものだと思っているのだが、いよいよ、下の世代になると抵抗感もなくなってきて普段から使うようになってきたのではないかと感じている。

  その典型的な例として、陽キャ陰キャというものがある。細かな定義は知らないが(このような言葉は相手との理解を深めるために使うのでもないので、定義づけすることが無意味かもしれないが)、概ねは社会的強者と社会的弱者を意味しているように思う。社会的強者とは、スクールカーストや年収や学歴、あるいは、外交的か内向的か、コミュニケーション能力や性的魅力の差などなど、あらゆる差異において、「陽キャと発している人間から見て」成功しているように感じるものや、喧しいものを陽キャと定義しているように思う。陰キャというのは、その逆というイメージだ。陽気と陰気の差とでも言えばいいのだろうか。

  こうした定義づけが曖昧な言葉は、最終的に使う人間ごとに定義が変化している。これは危険が伴うように思う。とりわけ、陽キャ陰キャという言葉は差別意識的な文脈で使われやすいように感じるからだ。講義室でうるさくしている連中を見て、陽キャどもうるせえよ、などと思ったりすることもよくあるのではなかろうか。どのような使われ方をしているのか、細かく知っているわけではないが、基本的にこの陽キャ陰キャは、ブスやデブとそれほど変わらない性質の言葉だろう。

 

この記事は二週間ぐらい前にここまで書いて止めていた。近頃益々似たような事件が増えてきたようだ。僕が不安に思うのは、こうした事件の要因が「陰キャ」「陽キャ」といった差別的な言葉が平然と使われている世の中だからではないか、という考えであると同時に、この概念が様々な物語に織り込まれているからではないか、ということだった。そういえば、ジョーカーの映画が公開された時、社会的弱者がジョーカーの真似をする可能性もあると警告した評論家がいたようにも思うのだが、まさにその通りになってきたような気もする。連休が恐ろしい。