彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

感想『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』

本作のような作品は、評価する上で極めて個人の経験に左右されがちだ。というのも、本作で最も力を入れているであろう箇所が「人の死をどれだけ幻想的に表現できるか」にあるからだ。

  先に書いておくと、本作はあまり楽しめなかった。そのために、褒められるようなことは書けない。この感想は、その前提の元に読んでもらいたい。

 

  「幻想」と書いても、人それぞれの「幻想」がある。極端な例を挙げるが、フィンチ家における幻想と、泉鏡花の幻想と、オディロン・ルドンの幻想は異なるものだろう。

  幻想はただ不思議な風景を描くものではない。なんらかの意図を隠すために用いる。フィンチ家の幻想は、虚構性を意識させることで、どのように各々が死んでいったのかを隠している。漫画やカメラの他にも、変身や妄想などを通して死の過程を表現している。どれも「本当はどのように死んだのか」が分からないままだ。ただの不幸の連続だったのかもしれないし、国柄をあまり知らないので何とも言えないが、土着的なもの(その土地の呪いだとかの)のせいなのかもしれない。いずれにせよ、その辺りが判明しない以上は、あまり考察の余地が感じられなかった。なぜフィンチ家の死を虚構によって偽装するのか、が提示されないと、「この死の過程の演出そのものを楽しんでください」と捉えられてしまう。

  肝心なその「死の過程」についても、中々素直に楽しめなかった。まず前提に、操作キャラクターが「フィンチ家を探索する主人公→死んだ人物の回想」と移っていくパターンが多く、プレイヤーからすると、そのキャラクターの死を一つ一つ鑑賞しなければならない。「死」についての価値観も、個々人に差があるものだと書いた上で、やはり悪趣味に感じざるを得なかった。赤ん坊が浴槽で溺死する場面などは、プレイヤーがカエルのおもちゃを操作して湯を出し続ける必要がある。製作側からすれば、一本道の回想録を飽きさせないための工夫だと思われるが、プレイヤーからすれば、先を見るためには赤ん坊を溺死させなければならないのである。

  また、その後の展開も不可解だった。湯船に浸かり切った赤ん坊の視界には、水草が生えた川(たしか川?)が広がっている。そのまま泳ぎ回り、排水溝と思われる光の穴に吸い込まれていく。この間に流れるナレーションが赤ん坊の父親のようなので、父親の空想なのか、赤ん坊の空想なのかが曖昧だった。この曖昧にさせる点もまた、考察の余地を失くしていく。プレイヤーからすれば、謎、つまりは「奇妙な屋敷」における「奇妙」を知りたいのだが、基本的には投げっぱなしなのである。このような奇妙なことがあった、このような奇妙な表現をしてみた、というのは十分伝わるのだが、何故そのような奇妙な物語や表現なのかの説明が不十分なために、前述した「この死の過程の演出そのものを楽しんでください」としか受け止められなかった。僕には悪趣味に感じた。

 

  リアルであるかないかは、物語の説得力に繋がる。このリアルとは、ファンタジーと現実などの世界観の違いではない。ファンタジーであれば、それぞれの地方や種族や文化を描いたものは、それだけの説得力が生まれてくる。僕らは人種も言語も文化も、地方や国ごとに異なることを知っているので、このようなハードファンタジーの世界にもリアルを見出すことができる。

  その上で書くと、フィンチ家の家は構造から出鱈目である。部屋中に(それこそ廊下にもどこにでも)本が置かれており、それぞれの部屋の扉には享年が貼り付けてある。まるで墓のようだ。享年付きの扉など縁起が悪そうだ。これはゲームだから仕方ない、という考え方もできなくはないが、このゲームは一本道な上に死の回想が展開されるだけなので、説得力を持たせて謎を強めなければ、考察の余地も生まれず退屈になってくる。ほとんどの人物は回想前に享年を知っているので、回想そのものの刺激が薄れているとも言える。刺激という意味では、悪趣味にしても振り切れていないように感じた。

 

このような感想になった。本作は家や幻想のビジュアル面そのものに関心を持てなければ苦行になるかもしれない。マジックレアリズムやシュルレアリスム、幻想や実存主義、あるいは、寺山修司などのアンダーグラウンド2001年宇宙の旅だとかインターステラーだとかのSF、メタが主題のゲームとしては「The Stanley Parable」や「ドキドキ文芸部」などなど、諸々の作品群にあまり馴染みがない方は良い刺激になるかもしれない。

 

とはいえ、『変身』や『田園に死す』ぐらいは抑えておこうぜ。