彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記『雪』

金沢もようやく雪が少なくなった。地元とは雪質が違うせいか、こちらの積雪は単純に歩きにくいものだ。
それにしても、辺り一面が白くなる風景は気持ちいいものだが、これも一つのアナキズム的な考えによるものかしら。
ふと思ったが、本当に美しいものを見かけた時、それはどこか不安や不気味などの不吉な感覚を覚えているかもしれない。とはいえ、それも『桜の樹の下には』とそれほど変わらない発想だ。だが、真っ白の雪は確かに美しいと感じているが、同時に白すぎて平衡感覚を失うホワイトアウトという現象があることを思い出す。山登りでもしなければ味わえない感覚だろうが、やはり覆い尽くされるという抗いようもない絶対性は、美しいと同時に恐ろしくもあるのかもしれない。海や太陽にも同じようなことを思ったりする。磯の香りは微生物の死臭であって、電気を失った暗闇の前では犯罪さえ起こせなくなる。後者は実体験というよりも、坂口安吾の『白痴』によると、という話だが。
常々自然における不条理は誰を責めることもできず、そして破壊された後の静寂は平穏と同義であると考える。それまでの価値体系が一度破壊されて、少しずつ再生されていく様は美しく思えるが、結局のところ、その分野に奉仕する強い精神性がなければ、不安を煽るものに呑まれるか、いつまでも夢を見て逃れようとするかもしれない。
そのような意味では、幸福よりも、絶望から立ち直るまでの方が感動的かもしれない。幸せを望んでいながらも、降りかからない絶望には興奮する。多くの物語がそうであるように。

雑記「傀儡か、反発か」

世の中にはコンプレックスがある。コンプレックスは、恐怖症というよりも、他者と比較した優劣に固執する印象がある。自分の劣等感を誤魔化すために、他者を否定するのかもしれない。
僕はコンプレックスが、これまで育ってきた親の教育に要因があると思っていて、そう易々と克服?解消?されることはないと思うのだが、少し不思議なのは親に教えられたことをそのまま受け入れられるものなのかということだ。
親は親だが、特別ではない。類似点はあるものの、親は子をそれほど知らない。それなら、親が言っていることが必ずしも正しいわけではないことを理解してもいいはずだが。ただ、学校の上級生が下級生にいじめに近いしごきをしていたとして、しごきを受けていた下級生はやり返すように、次の下級生に同様のことを行う場合がある。それと同じことなのだろうか。理不尽に育てられた子は、親になって自らの子を理不尽に育てやすいとも聞いたことがある。負の連鎖だ。
ただ、親を反面教師にする場合もある。親のようにはならないと考えて生きる人もいる。この差はなんなんだろうか。僕は『放蕩息子のたとえ話』のように、一度は親元から離れた方が、より広い見識を得られそうな気もしているのだが、そういう問題でもないのだろうか。
親により作られたコンプレックスは、結局ほとんど一生残り続けるのだろうか。大元への疑問がなければ、その人は一生そのままかもしれない。
ということを考えざるを得ないことがあった。僕の出来事ではなく、彼女から又聞きした話ではあったが、なかなか溜息を吐きたくなった。関わる人間を選ぶことも大切なことで、自然と切り捨てることもまた、時には大事なことだ。それがまた、一つの成長な気もする。

とりあえず、今日から題名を入れることにした。700文字も気にしないことにしよう。飽きた。

雑記18

 ツイッターの使い方が分からないまま三カ月ほど過ぎてしまった。

 色々なアカウントを見てみたが、その使い方は結構違いがあるようだ。当人にしか分からない一言を書いたり、ファン層に向けた一言を書いたりもあれば、告知に徹底しているものもあった。使い方次第ということか。これは困った。

 作品で飯を食べる気はないが、かといって、誰にも読まれないことを望んでもいない。告知だけで済ませたいのだが、制作期間が空くことを考えると、それたけでは次のツイートが半年以上も先になってしまう。それはどうなんだ?

 そこで色々試してみた。最初は写真を載せてみたのだが、これはこれで告知の意味が無くなってしまうし、風景ばかりだと根暗が誤魔化せない。(誤魔化す気もないが、あえて主張したくもないのだ)一言書いてみたりもしたが、それはそれでこっぱずかしい。誰に何を伝えるのでもなく発信するというのは、なかなか度胸がいる。身内同士なら生存報告にもなると思うが、作品の告知と同じアカウントを使いたいとは思わない。

 あと気に入っている小説の一文を載せてみた。しかし、これも著作権を考えると面倒だった。それにそういうものを発信する自分の見られ方を考えると、どうもナルシシズム的で嫌な気持ちがしてきた。考えるときりがない。

 結局、作品の告知ぐらいしか出来なそうだ。このブログの記事を告知することも考えたが、チラシの裏に過ぎない記事を宣伝したところで、かえって作品も読まれなくなるかもしれない。元々ツイッターを使っていればまた違ったのかもしれないが、自分のことを逐一呟くというのは、どうも僕には度胸がいるらしい。思えば、作品もそんなもんか。

雑記17

 2021年になった。

 去年は、色々な意味で宗教が増えた。信仰の対象がとても広くなったように思う。それだけ、世の中が暗いのかもしれないし、僕が見ている情報などからそう思うだけなのかもしれない。その上で、益々生きづらい世の中になったと感じる。娯楽で逃れられるうちは、まだいいのだろうか。

 結局のところ、どうあれ、僕はこれからも文学に従事するだろう。どのような形であれ手放せないものとなっているので、あとはこれをどう扱うか、金に替える気があるのかないのか(そもそも、架空の600円程度がいまだにアマゾンを彷徨っている。この程度なら回収する気も起きないので、もうどこまでも漂っていればいい)、今後どうするか悩みどころだ。あまり名声を求めていないのか、作品が仕上がるだけで満足する傾向があるので、さて、どうしたものか。

 しかし、今年で自分は29になるのだが、頭が硬くなってきたようにも感じる。ずいぶんと歳をとってしまった。もう人生の8割は生きたような気持ちだ。梶井基次郎は確か33で亡くなった。暗い話になるが、一昨年の僕は危なかった。うっかり勢いさえあれば、三途の川か、審判による地獄か、いずれにせよ、終わらせかねなかった。そして、のうのうと生きて今年を迎えた。

 勢いさえあれば、もう10年早く終わらせていたはずだった。僕はもうその時に一度死んでいるのだと思うことがある。大切な何かを失って、今生きている自分は仮象や抜殻のようなものに感じることがある。生き続けるのは、不思議なことだ。

 そんなことを言いながら、30年40年しぶとく生きるのだろうか。一生で一年ぐらい、何も気負わずに生きてみたいものだ。

 

雑記16

作品を作るまでは良いものの、見せることに抵抗がある人が周りにはちらほらいる。確かに作品には多かれ少なかれ作者の性癖や思想が現れるものなので、恥ずかしくなることも分かる。何よりも、評価されることが恐ろしいだろう。

  結局のところ、作品は見られることで完成するので、どうにか誰かに見せた方がいい、というのが持論なのだが、彼らからすると分かっているという話かもしれない。

  問題は誰に見られたいか、ではないかと思う。例えば、僕の書いているものを投稿サイトに載せても、おそらく需要が異なるだろう。何より横書き表示が気に入らない。だから、Amazonで出してみたり、教授や周囲の方々に見せてみたりしている。

  ただ、まずは身内から、身内に信用できる審美眼を持つ方がいればその方から。見せないという選択肢は、あまり良いとは思えない。

  というのも、「私」を構成する要素も、内部と外部の集合のようなものだからだ。私から見た私と、あなたから見た私が、必ずしも同じではない。それに、どちらが間違っているのでもない。その両面を合わせて「私」が構成される。

  作品もそのようなものだ。作者と鑑賞者の両方が合わさって、ようやく作品の質が確かめられるという面もある。「また鑑賞したくなる」という価値を相手に与えられたら、それほど嬉しいことはない。

  また、苦しみもある。上手くいかない時期の方が長いというよりも、上手くいかないことが次の原動力となるので、作者は常に修行僧のようなものかもしれない。

  まずは身内から。少しずつ広げてはどうか。賞など取れば自信にもなるだろう。何にせよ、作ることをやめるのは勿体ない。

雑記15

※追記

12/22  文章の加筆修正。

 

 

  父はゲーマーだったので、僕も色々なゲームをしてきたものが、思い出深いものの一つは「ときめきメモリアル」だった。緑の髪の水泳部を口説き落としたようだ。親しくなると、あだ名で呼ばれるシステムなのだが、父のつけたあだ名はいつも主人公に名付けているものなので、ぶちスライムを叩きのめし、魔導アーマーで巨大カタツムリを焼き払ったりする荒くれ者の名でもあるのだ。(ああ、確か魔導アーマーのは母の名前をつけていたな。ずいぶんなことだ)僕はあまり面白さが分からないので、ときメモにはハマれなかった。

  父は王道を楽しんでいるかと思いきや、バーチャコップや、バーチャロンに、デスクリムゾン(これがまた話題になる前の新品と思われる。少なくとも僕が小さな頃から置いてあったのだ)や、エネミーゼロを攻略本付きで遊んでいた。思い出してきたが、グラディウス3、雷電ⅱ、蒼穹紅蓮隊、海底大戦争のようなシューティングもあったが、Diabloトゥームレイダーなどの洋ゲーもやっていた。かといって、ダンスダンスレボリューション(床に敷くコントローラーまで揃えていた)や、ストリートファイターバーチャファイター、FFドラクエバイオハザードもやっていた。こうして並べてみると、かなり雑食だったようだ。

 

  そんな中で印象的だったのはPCゲームだ。幼い頃は、Spectreという戦車ゲームをよくやっていた。僕も少しやっていた記憶があるものの、この淡白な雰囲気が少し不気味だった。当時はPS1があったかどうかだと記憶しているので、フィールドを駆け回るゲームは僕にとって新鮮だったのもあるかもしれない(父はジャンピングフラッシュなどは買っていなかったのだ)

(ジャンピングフラッシュは10年ぐらい前に遊んだが面白かった)

 

  そんなゲーム体験の中でも、特に印象深いのはWarcraftだった。BlizzardのRTS作品だ。日本での知名度は低いものの、世界的には人気があったらしい。オンラインゲーム版のWOWではなく、WC2と3が実家にあった。幼い頃はよく父が2をやっていて、ウィザードで対岸のオークたちにブリザードを降らせていたものだった。

(この労働者の声が癖になったものだ)

 

  結局、僕はこの頃からBlizzardに取り憑かれていたのか、後々3をやり、PS1版Diabloをやり、Diablo3をやり、Overwatchをやり(ドゥーム前に戻してくれまじで)、今はちょこちょこHeros of the stormをやっている。これほどの付き合いはアーマードコアシリーズぐらいだろう。あのシリーズも10年以上遊んだ。新作をいつまでも待っている。まじで。

(馬鹿みたいに遊んだ。もうソウル系とかいいじゃん。忍者ものもいいじゃん。メタルウルフカオスとかいいから、アーマードコア234辺りをリマスターしてくれ。まさか次はムラクモ出しちゃうとかないよな。まさか次はキングスフィールドとかないよな?  キングスフィールドなら買うかもしれん。でも俺は切実に待ってるよ。そのためならPS5買ってもいい。頼むよフロム。クラウドファンディングしたら払うよマジで)

 

  父はその後リネージュなどのMMOに手を出していたが、最近はアニメばかり見ているらしい。数年前にコードギアスを二周していると言われた時は、僕なんかより余程この人はヲタクらしいなと思ったものだ。しかし、面白いことに、この方はアウトドアでもある。楽しめるものの幅が広いのだろう。

 

  今回は700文字の規則を破って書きなぐってやった。たまにはいいだろう。結局、最近はPath of ExileMTG arenaとHeros of the stormをちょこちょこ遊んでいる。

 

 

 

 

 

 

雑記14

泉鏡花という作家がいる。文学史上では、明治期に尾崎紅葉門下の一人として当時の社会を批判したような作風(確か観念小説と呼ばれていたか)で載っているが、むしろ、観念小説と呼ばれたもの以外の方が真骨頂の印象がある。日本的な幻想小説を書いている方で、幽霊や龍神などがなんらかのテーマ性を象徴させて出てくるようだ。「ようだ」と書いたのは、僕も数作品しか読んでいない上に、幽霊や龍神が司る象徴性を理解していないからだ。もしかすると、八百万の神々的なもので、象徴性を意識しているわけではないかもしれない。水木しげるが漫画化しているので、気になるならその辺りからが良さそうだ。

  院の講義で数年前にいくつか読む機会があったが、それ以外ではあまり読む気になれなかった。雅文体の敷居の高さと、象徴性の難解さ、何なら語られる視点もまた独特なので、これほど取っつきにくい作家もいないかもしれない。

  今はどの程度の人気か分からないが、一時期文豪ブームを作ろうとしていた時期がある。「文豪」をキャラクターに置き換えた商品がいくつか展開されていた。大学でも、それで文学に興味を持ってくれるならと思う方は多かった。実際、その影響で観光客が増えていたらしい。

  だが、振り返ると、なかなか文学の興味まで進めた人は少なかったのではないかと思う。あくまでも、商品化された「文豪」が好かれたのはそのキャラクターであって、作家性との繋がりは希薄だった。作家を知る機会にはなったが、小説を読む機会にはなったのだろうか。

  それに泉鏡花は女の子にされていた。名前のせいだろうが、実際は潔癖症で職人気質のおじいさんだったのだ。豆府くいてえ