彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「解決策がないこと」

解決策がない物事というのは意外に多いものだと感じる。最近だと、というよりも定期的にいじめで自殺者が出ると(厳密にはその自殺かいじめと判定されると?)報道機関で話題になる。下世話な話なんだろうが、人間の極端に悪い例を報道できる方が注目は浴びやすいのかもしれない。もちろん、このいじめ問題に真剣だからこそ報じるという方々もいるだろうと思いたいが。
とはいえ、いじめはどうにかできるものでもないように思う。結局のところ、少なくとも日本の社会では大抵の場合、どこか周囲と違うことが特異なわけで、それを受け入れられる国民性はあまり備わっていないように思う。この国民性というものは、歴史的なもののように感じる。
嫌な世の中だとつくづく思うのは、いじめる側は自分たちの位置を揺るぎないものにしたいがために(安心を得たいためにだろうか)、いじめを行うわけで、彼らもまたこの国民性というものに従順なわけだろう? それに学校も基本的には評判と関わるだろうから、問題が起きても基本的には隠蔽したがるようだ。昔付き合っていた方も、高校の頃に強姦されたことがあるものの、学校に隠蔽されたようだ。某自殺者が多い県の進学校の話だ。その方はある理由から坂口安吾が好みだったな。相変わらず、この話は不愉快なので、遠回しにこの学校を非難したくなる。
結局そうなると、学校機関を信用することもできず、ましてや性的な問題になると尚更話しづらくなる。八方塞がりの末に、自殺する人もいれば、PTSDを患って苦しんで生きていく人もいる。僕の思想的には、その不条理は受け入れざるを得ないものであって、肯定否定という話ではなく、人間が生きる以上は生じざるを得ないものと考えている。もちろん、それでは何の解決にもならない。そのために、僕は苦しんでいる人を救うことの方が重要に思う。いじめをなくすという発想は大事には違いないが、結局行き着く先はディストピア的なものになりかねない気もするので、現実的には今尚苦しんでいる方々に手を差し伸べることの方が重要ではないかと思ったりする。結局、人にどう思われようと追い詰められたら戦うしかないと思っているのだが、その戦うまでの勇気を持てない人も多いだろう。
しかし、教育方法を変えないと、どうしようもない気もする。狭い小屋に鶏の群れを入れると、いじめが始まるのと同じように、教室という空間が今の時代に合わないのだろう。北欧のような授業になれば、また変わったりするのだろうか。あるいは、国民性というものが結局いじめを引き起こすのだろうか。