彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記⑥

好きにしても色々ある。蓼食う虫も好き好きである。

  だが、それが好きという理由だけで一生涯続けられるものかどうか。僕で言えば、一生涯小説を書き続けられるかどうか。

  僕自身小説を手放すというのは、人生の4分の1を無駄にしたようなものなので、やめることはないだろう。くどい書き方をしたが、小説で飯を食う気はないので、流行や売上に悩んでいない分、小説そのものを好きでいられるのである。もちろん、それらを考慮した上で好んでいる人もいるだろう。僕が流行や売上を意識したら、小説を嫌うに違いないという話だ。

  しかし、小さい頃から小説を書くことが好きな方は、いずれの段階で小説の構造を考えようとするのだろう。小説は物語に違いないが、物語は小説ではない。漫画も映画も物語だが、物語が漫画や映画ではない。あくまでも、これらは物語が内包された虚構なのだ。

  小説は小説なりの強みを表現しなければ、視覚的に理解しやすい分、漫画や映画に比べると分かりづらい。その強みにしても、うまくいかないと性癖の暴露したような作品が出来上がってしまう。どの分野においても言えると思うが、作るには感覚だけでなく、ある程度の論理性が必要だと思っている。どの分野においても、そこまで意識された作品は質が良いと思っている。あとは好みの問題だ。

  ずいぶん偉そうなことを言う。しかし、これは僕自身への戒めでもある。作品にはあらゆる意味で作者が描かれるために(あくまでも、僕はテクスト論的に作品を読む。作者と読者は性質が異なるのだ)どのように書いても作者の意識が反映されてしまうものだ。この意識だけは淀ませたくない、という話なのである。

雑記⑤

小説や漫画は虚構だが、映画やテレビも虚構だ。その違いは、実在する人物を駒の一つにしているかどうかではないのか。

  少し前に、そんなことで盛り上がるような事件があった。詳しく語る気はないので省くが、テレビ番組の演出上悪役を演じていた方が、ネット上のバッシングなどの要因で自殺したというものだった。

  どうやら、実在する人物を用いるほどリアリティーが増すのかもしれない。リアルなほど盛り上がるようだが、そのリアルが嘘だと炎上するものらしい。なかなか難儀なものである。

  だが、僕の考えによれば、虚構は意識的・無意識的に作られるものだ。無意識とは、記憶のことだ。おふくろの味が美味しいと思うことや、懐かしの何かを楽しいと思うことは、その記憶に「良かった」という思い入れがあるからだろう。その思い入れ自体が、一つの虚構だと言いたいのだ。また、いわゆる「勘違い」というのも、虚構と言えるだろう。だいたいの物事は虚構なのだ。

  そもそもの話だが「虚構」の印象がマイナスの場合、「思い入れや勘違いも一つの虚構なのだ」という考えは、マイナスに捉えられるかもしれない。それに不思議なことに、享受者ほど「虚構だから」といわゆる作品を見下したような考えを披露される場合がある。これについて語り出すと、間違いなく口が悪くなるので控えておく。「虚構」の意味や価値が異なるのだ。でもさ。意味や価値があるからこそ研究するわけで、それを「虚構」と言ってないがしろにするのは、むしろ失礼ではないのかね。と、思わなくもない。

  結局、口が悪くなった。だが、これも演出なのである。本当はそんなこと何一つ考えていない。虚構なのだ。

  

  

 

雑記④

  二人称小説というものがあるらしい。「あなた」や「君」で展開される作品のようだ。僕は読んだことがない。

  だが、「あなた」や「君」を主人公にしたところで、誰がそれを語るのか考えると、「私」が省略されているだけな気もする。「あなたはこれから街に出て、虫刺されで悶え苦しむところに、白馬の王子様に連れられて、医科大前の定食屋で鯖味噌を食べていたところ、隣のアンドロイドに醤油を垂らされた挙句問答無用で斬られたのでした。自我崩壊のEエンドです」などと言われても、誰だよお前と思わずにいられない。内容の問題か?  そんなまさか。

 

  そういえば、舞台が学校の作品も限界を感じたりする。僕自身学校にろくな思い出がないことや、学校を舞台にすることで登場人物の年齢を下げざるを得ないことなどを理由に、 自分の作品では用いない舞台なのだが、ある程度の想像はできる。青春やいじめや恋愛、それらを内包したものなど、様々な作品はあるものの、どのような展開をしても既視感から逃れられないようにも思う。悪いわけではない。人気になりやすい理由でもあるのだ。同じような展開だからこそ安心できる面もある。

  既視感も舌が肥えていなければ感じられないので、僕はただの偏屈とそう変わらないのだ。それに物語や演出はある程度似てしまうもので、似てしまうからこそ、別の何かを取り入れるなどして個性を出そうとする。

  しかし、テーマ性と奇をてらうことが一致していれば見事な作品だと思うが、奇をてらう以上の目論見が感じられない作品は中々辛い。回りくどい自己主張からくる作者の自己愛を感じかねないからだ。あくまで作品は論理的でありたいものだ。

雑記③

  雑記に文学の話を書けば、販売促進的な効果が得られるのではないかと考えた。とはいえ、口座番号が違うのか、一向にAmazonから有料分の売上が振り込まれていないので、販促の意味もそれほどない。510円がもう半年近くデータの海を漂っているのである。

  いくつか書きたいことを文章にしてみるものの、結局何も言いたいことがない。その繰り返しでこの雑記③は実質⑤か⑥ぐらいになっている。

  極端なことを書き殴るだけで良いのなら、いくらでも言えることはある。しかし、たいていの物事は極端な振れ幅で成立していないので、下手なことは言いづらい。あくまでも、僕の発言はすべて、体験してきた統計に基づいた考えに過ぎないのである。かといって、こんな考え方をすると、何も書ける気がしなくなるのだが。

  そういえば、少し不安なことがある。おそらくこの記事を読まれた方の多くはまだ若い人だろうが(しかし、この若いの基準もまた、あなた方が裁定しなければならない。僕は28歳だが、これを若いと見るか、おじさんと見るかはあなた方に委ねられるのだ。しかし、僕は僕の裁定によればまだ若い方だと考えているが(日本人の平均寿命的にはまだまだ若い方だろうという気がしているのだがどうだろう?)、思えば何十歳以降が老人であって、中年なのだろうか。この区分も考えるだけ無駄に過ぎないことではあるものの、例えば、小説で「中年の男」が出てきたとして、だいたい何歳ぐらいを想定すれば良いものだろうか。仮に「中年の男」が28歳だとすると、「おや、思ったよりこの作者の思う中年は

  おっともう700字だ。700字なら終わりだ。そういうことになっている。

雑記②

  人には様々な価値観や経験がある、という言葉は耳が腐る程聞いてきたつもりだが、百聞は一見にしかずのようだ。実際知る機会があると、思いの外不思議な気持ちになる。

  このような話の場合、言葉を選ばないと毒づいている可能性がある。どのような文章にするか考えなければならない。様々な価値観があることを認めることと、理解できない価値観に否定的な気持ちになることは、何も矛盾していないのである。

  どうだろう。この気持ちを何かに置き換えてみるか。例えば、小説が好きという話をする中で、よく聞いてみると全く異なるジャンルだった場合、どのように反応すれば良いのか難しい。お互いに気まずい思いをするだろう。何より、僕はそのジャンルにあまり肯定的な気持ちになれないのだ。

  人間は色々な要因から価値を見出すものだ。売上や流行で決めることもあれば、自分の感性で決めることもある。他者が理解し合えないのは、肯定否定どちらも含めて素晴らしいことだ。何もかも理解し合えるのはディストピアと同じだ。誰もが異なる価値観を持つことは素晴らしい。それは同時に、人間が争い続けることにも肯定せざるを得ない。

  だが、僕は争い事が苦手だ。戦争も怖いし、自慢話の張り合いなんかも関わりたくない。人は争うものだと肯定していても、その争いに参加したいかは別の話ということだ。矛盾ではない。

  ここまで前置きすれば、何を書こうと構わないはずだ。好きに書かせてもらえるだろう。このもやもやとした気持ち、一見の価値観の話を書けそうな気がする。と書いているうちに面倒くさくなった。僕は平和が好きなのだ。それにあまりにも、この例えは下手くそだった。