彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「ウィルス」

昨今は某ウィルスのせいで世の中荒れ気味に感じる。いわゆる今時の若者が〜という人もいれば、アジア人差別の話もあるし、世間から注目を浴びやすいためか、アーティストやユーチューバーの飲み会などで盛り上がっていたりする。どれもこれも根本的には某ウィルスのせいには違いないのだが、仮にウィルスが収まったところで解決する問題なのかは謎だ。
最近どうも、いわゆる教祖的な位置にいる方々の化けの皮が剥がれてきた感がある。化けの皮と書くと悪い印象を与えるかもしれないが、人気と商売は切っても切れないと思うので、ある程度人前では演じようとするものだろう。その上で言えば、ストレスを抱えがちなためか? あるいは、炎上することで記憶してもらうためか? 目的はよく分からないものの、少し浅はかなような言動や行動が見られる気がする。おそらく、世間的には我慢をしなければならない時期なので、我慢している側からすると、好き放題できる人々に嫉妬心や反規律(極端に言えば、悪人のような?)印象を抱きやすいのかもしれない。我慢する側がバカを見るというのが腹が立って仕方ないなど。
僕は元々人混みを避けたがる性格なので、この時期に我慢を強いるというストレスは抱えていない。とはいえ、遠距離の恋人に会えないのはどうにもこうにもという話で、同じような人々多いことだろう。もう半年以上も会えていないのだ。ずいぶん模範的な生活をしていると言えそうだ。
それにしても、こんな世の中で生活していくためにはどのようにすればいいのか、などと考えたりしていると、結局のところ能動的ニヒリズムに生きていくことしかないような気もするのだが、それを人に伝えたところで、何を言っているのだろう? と思われるだけだろう。そういうものは作品で表現していくしかなさそうだ。

雑記「王道と白米」

昔、恩師が「米はまずいからこそ毎日食べられる」と言っていた。「まずい」というのは、おそらく言い過ぎで、厳密には味が薄いといった意味になるだろうと思う。
これは意外と虚構においても重要なことなのかもしれない。大量生産される音楽や物語にある既視感とは、まさに米と同じものではないのだろうか。
王道の面白さとも似ているものがある。父は某海賊漫画などが好みなのだが、何が面白いのか聞いてみると、安心して見られるところだと言っていた。僕にはその「安心」を「退屈」だと感じてしまうので、そのような楽しみ方があるものなのかと感心した記憶がある。この「安心」こそ、白米的な薄味さではなかろうか。
保守的と革新的との違いとも言える。こればかりは作品に何を求めているのかの違いかもしれない。白米の例えをしてみたが、王道にしても様々なジャンルがあるわけで、日本なら白米に相当するものが、世界の国々ではまた異なるものだろう。絶対的な価値観というのは、ほとんど存在し得ないので(仮に絶対的な価値に近いものがあるとすれば、それは「生命」や「太陽」などの生存に関わるものではないかと思ったりする。少なくとも、芸術の分野では存在しないだろう。存在しないからこそ作りたいと思えるわけで)、日本における王道が何かを考えてみるのもまた面白い気がしてきた。よく日本の流行りものはガラパゴスと言われたりする点からも、良くも悪くも独自の王道がありそうだ。
ゲームなんかは特に不思議だ。世界的に知名度が高いものも、日本での認知度は低い。例えば、LOLにしても、その前身にDOTAがあるわけで、そのDOTAにしても、Warcraft3のmodだということを知っている人は少なそうだ。そもそも、LOLを知らない層もまだまだ多いかもしれない。逆に世界的にはドラゴンクエスト知名度は低いと聞いたことがある。たしかに元々TRPGもあれば、ウィザードリィなどのゲームもあったのだから当然なのかもしれない。
音楽にしても、同様のことが言えるのだろうか。演歌ときて、歌謡ときて、ポップスとなって、今はボーカロイド風の曲が増えているように思う。これもまた、ガラパゴス的なのかもしれない。今は分からないが、アイドルグループの楽曲などもまさに日本独自の人気だったと記憶している。べイビーメタル?などは世界でも人気があったらしいが。
こうした王道を知ったからといって、それを実践できるほど器用でもないのだが、単純に文化的な?歴史的な?違いを感じられるのは面白そうだ。まあ、だからと言って今更海賊漫画や鬼退治?の侍漫画を読むだとか、「やかましいわ」を聞いて、所謂今時を知りたいとまでは思わない。結局のところ、僕が退屈に感じないための工夫という話なのだろう。白米もよく噛めば甘さを感じられたりする。飽きているのに食べざるを得ないときは、甘さを感じようとしてみたり、色や形の違いを感じてみたり、あるいは、一粒の食感を確かめてみたりなどして、わずかな変化を楽しもうとする。

雑記「主観だからこそ」

もし、自分の人生が不幸だと考えている人がいれば、それも一つの答えだとしか言えない。結局のところ、幸も不幸も主観によって決められるものに他ならないので、当人がそう思う以上の答えが存在しないのだ。
誰かによって決められるものでもないのだから、折角だから不幸と考えるよりも、幸福と考えた方が都合がいい。不幸だと思い込むほど、自分に必死になりやすくなるだろうし、何かと幸福そうに見えるものを妬んだり憎んだりしやすくなるだろう。他者との比較は、時には必要だが、大抵は必要ない。
たた、そんなことを言われてもそう簡単なことではないわけで、実際に自分が幸福だと感じなければ、あるいは、他者との比較そのものを否定する考えに至る経験をするだとかしなければならず、いずれにせよ、根本的には肯定感が必要なので(この肯定感というのも面倒くさい。自分に対して肯定感だけなら、結局本質はそう変わらない気もするのだ。もっと大きな範囲で肯定してやりたいところだ)時間がかかることだろう。
比較しようもないことなのだが、流行りものや同世代、もしくは、若い世代の好まれているものを考えると、本質的な問題の解決ではなく、一時的な慰めに終始している印象がある。比較するしないで言えば、どちらも大切なことには違いないので、何かと均衡な状態が大切だと思うのだが、これはどう伝えればいいものか難しい。共感という意味では、青臭い方が理解しやすいことは確かなのだ。
均衡の大切さよりも、劣等感や嫌悪感に同情するような作品は多いのかもしれない。現代社会で形成されてきた精神性? それだけ大人も子供も余裕がなくなってきたということかもしれないし、多くの人々にとって慰めはやはり必要わけで(もちろん、僕も必要なのだ)、虚構の中ぐらい共感して慰められたいと思うのも当然だろう。ただ、そうしたものは若年層に受け入れられるものだと思っていたのだが、その若年層に二十代も含まれる世の中になってきたのだろうとは思う。20から29歳だ。僕もまだ若年層なのだ。
以前友人から聞かされた昼ドラと似ているように感じる。昼ドラは主婦層に向けて作られているために、家事などで忙しく一話見逃した場合を考慮して、何話から見ても大体の流れが分かりやすく作られているとのことだ。音楽も歌詞が分かりやすいほど受け入れやすいことは確かだろうが、歌詞の内容のせいで、僕にはどうも世知辛い。

雑記「オーバーウォッチについて」

オーバーウォッチというゲームがある。MOBA要素を取り入れたFPSで、もう発売して五年ぐらい経ったはずだ。僕もかれこれ4年ほど遊んでいる。
 現状、オーバーウォッチは人が足りなくなっている。マッチングが遅いという話ではなく、おそらく内部レート的に極端なマッチングが少し増えてきた。どの対戦ゲームにおいても知識と判断力は重要だが、オーバーウォッチはその差を感じやすい。エイム以上に立ち回りが重要なせいだろう。エイムが上手いだけではなかなか勝てないのだ。
 そんなわけで、カジュアルプレイでは個人成績から敵味方双方の内部レートが均一になるように配置されている? と思われるのだが、ここ半年ぐらいからどうも均一ではなくなってきたように感じる。単純に人が減ったせいなのかもしれないし、誰かと組む場合の補正もありそうなので細かなことは言えないが、勝つにしろ負けるにしろ、その原因が知識量や判断力の差異に起因している印象が強くなってきた。
 オーバーウォッチは30人ぐらいのキャラクターから一人を選び戦うというルールだが、試合中にキャラクターを変更できるということは、状況次第で適切なキャラクターに変更しなくてはならない。だが、中には特定のキャラクターばかり使う人々も多い。ポップでバタ臭さはあまり感じず、背景やボイスラインによる性格の表現なども見事なので、キャラクターに引き込まれるのもよく分かる。ただ、それが前述したゲーム性とは矛盾しているので、基本的には特定のキャラクターだけを使う人は周りが合わせなくてはならなくなる。マップや相手次第では、それだけで不利にならざるを得ない。
 僕はヒーラーを中心に使っていたのだが、なかなか難しい職だと感じる。キャラ数は少ないものの、逆に少ないということは、それだけ特定の状況やマップ次第で適切なキャラクターに変える必要性がより強い(つまり、キャラ数が少ないということはそれだけ各ヒーラーごとの癖の違いが大きいのである)わけで、勝つためにはどのヒーラーもある程度使えた方が良いのだ。他の職以上に使えた方が良いキャラが多い。
 また、多くのヒーラーはエイムが下手でも回復することができる。FPSが苦手なプレイヤーほど、ヒーラーを選びやすいだろう。立ち回りも基本的には後衛なので、タンクほど責任を負わなくてもいい気持ちになれる。何より回復だけすればいいという考えに至りやすいので、勝てない理由を他のプレイヤーに押し付けやすい。
 この「押し付けやすい」という問題はヒーラーだけにとどまらない。互いに負けた試合の原因を押し付け合おうとすることもしばしばある。例えば、裏を取られているのにヒールが間に合わないと文句を言う人もいれば、周りを見れずヒールが回せていないのにアタッカーを責める人もいる。どれだけ俯瞰的に分析できるかどうかが重要だと思うのだが、そうなると、どうしてもカジュアルプレイ自体の敷居が上がってしまう。
 カジュアルプレイだからと言って、特定のお気に入りキャラを使い続ければいいというものではない。結局のところ、勝ちたいことには変わりないし(勝負事はカジュアルだろうと勝ちにこだわりたいものだろう)、ゲームのルール上特定のキャラを使うだけでは勝てないようにできている。せめて各ロールで数キャラは使えるようにしないと、偏った視点で戦況を分析しかねないし、他のロールを知ることでより場面ごとの適切な動きが分かるだろう。こうした前提が6vs6の合計12人で成立するかというと、やはり現状の人口では難しいようだ。長くプレイしている人でさえ、そのことを理解していないような動きをすることもある。
 敷居が高い割には、魅力的なキャラクターなどのライト層を取り込める要素が多かったのが、これが現状のオーバーウォッチに至る原因だったように思う。定石を気にせず、お気に入りのキャラクターを使う味方がいると、それだけで詰む可能性が高まってしまう。最初のピックの時点で展開を読める試合が5分10分続くのは苦痛だ。この苦痛は僕だけのものではなく、他のチームプレイヤーも、固定ピックをするプレイヤーも、なんなら一方的すぎた試合なら対戦相手さえも感じることだろう。誰も得をしないのだ。これが初心者ならまだ諦めはつくものの、100時間は優に超えているプレイヤーでもなかなか多いのだから、人が減るのも無理はないのかもしれない。キャラクター好きと対戦好きは共存できない。ポケモンなんかいい例だろう。あれほど棲み分けできているものもないように思う。
 愚痴というよりも、残念というのか、失敗というのか。オーバーウォッチ2にはあまり期待していない。キャラやストーリーの掘り下げは楽しみだが、同時にストレスになる試合も増える可能性がある。ある程度の定石は、チュートリアルで紹介された方が良いように思う。例えば、6vs6なのだから、一人死んだらそれだけ有利不利が生まれるなど。敵が減れば押せるし、仲間が減れば下った方がいい。こんなもん当然ではあるものの、それさえ分からない人も中にはいるのだ。

雑記「モチーフ」

世の中には様々な表現があるものの、どちらかというと、突拍子のないファンタジーにはその役割を担う意味が込められていないと気が済まない質なので、モチーフというものはどうも意識せざるを得ない。
 昔読んだ学生の作品の中に、唐突にドラゴンが出てきて冬を吹き飛ばし春にするというものがあった。このドラゴンが何を意味しているのか、なぜドラゴンなのかは当時の僕には読み取れなかったが(日本的な龍ではなくドラゴンなことも不可解だった)、ジュブナイル? ライトノベル? あるいは、同人界隈の発想のように思ったので、それほど意味があるとは思えなかった。とはいえ、とても大雑把な書き方をすると、季節を変えるほどに強い存在が作者にとって「ドラゴン」だったということなので、「ドラゴン」は絶対的な力を持つ存在ぐらいの認識でいいのだろう。もっと言えば、季節が変わることの理由にドラゴンを据えるというのにロマンがあったぐらいのことだと思う。
 思うに、シュルレアリスムとマジックレアリズムとファンタジーの境界線は曖昧なものだか、結局のところは作中の意味の範囲の違いかもしれない。例えば、ファンタジー作品におけるエルフが排他的に描かれているとすれば、それは自分たちの文化を守るという保守的な集団を描いているものであって、「エルフ」という人間ではない存在自体には特別な意味が込められていない可能性がある。つまり、現実における保守的な考えの人々を一括して「エルフ」と置き換えたのである。
 逆に、骸骨などは分かりやすい。「死」にまつわる何かの象徴であって、ヴァニタスやらメメントモリやらという思想で描かれている。最近読んでいる『やし酒飲み』においても、骸骨の紳士が出てきたりする。いずれも、「死」となんらかの向き合い方をしているように思う。
 両方混ぜて用いる場合もあると思うので、一概にどちらがどちらなのかは言い難い。ただ、僕が例のドラゴンをあまり好めなかったのは、「太陽」を「ドラゴン」に置き換えただけだと感じたからかもしれない。「太陽」そのものが絶対性を有していると思うので、それを生物に置き換えてしまうことで、むしろ、元々のある種の神秘的な、超常的な? 圧倒的な光と熱を前にしては、人間など無力に過ぎないではないか。人間は太陽の機嫌一つで簡単に滅ぶのだ。こんなにすごいものはない。
 実際、ドラゴンにどのような役割を持たせるのかというのは難しい。ファンタジーは架空の生物を現実に当てはめるので、隠居気味の富裕層だとかがいい塩梅な気もする。シュルレアリスムとなると、ドラゴンはおそらく用いない。シュルレアリスムは象徴の連続だと思うので(例えば、ダリの時計の絵で言えば、「時計」は時間を示すものであって、「時間」は私たちの生活の基盤であって、「生活の基盤」とは日常でもある。その「時計」が溶けているということは、日常が壊れていくとも受け取れるだろうし、溶けてほしいという願望とも受け取れる。あるいは、作者にとっての日常の感覚か「溶けている時計」なのかもしれない。また、背景が荒野というのもより崩壊を描いているようだ)、架空の生物を出すという表現にはそぐわないたろう。「鏡の国のアリス」などは両方の面が混ざっているような気がする。読んだことはないが。
 適当に書いてみたが、実際どうなのかは謎だ。とりあえず、メモがてらに。

雑記「私小説」

現実世界を舞台にした小説は今は人気が出ないのかねえ、という節を教授が言っていた。どこに着目してリアリティーにするかが問題な気もする。
実際、現実を舞台にしても面白いドラマを作る要素はそれほど変えられそうもない気がする。ジャンルという意味では、仮にファンタジーやSFだとしても、恋愛、コメディ、推理もの、などの物語の筋となる部分は変わらない。想像のしやすさや、今の社会において舞台にしたい場所がどれだけあるのか、という違いになるのだろうか。現代にしすぎるほど、隣家や隣人同士の交流も少なくなりがちなので、物語を作りづらい、あるいは、その物語が不自然に見えてくるだろう。漫画やドラマ、あるいは劇などは、それらがあくまでも虚構に過ぎないというある意味ではとても冷めた視点で鑑賞できるので、こんなこと現実には起こりえないよね、などと考えること自体が野暮ったいという暗黙の了解があるようにも思う。とはいえ、実際に虚構と同じように暮らしていきたい、人と接していきたいと思う人は多いと思うので、冷めた視点というよりも、鑑賞者は理想的な物語に心惹かれるということなのかもしれない。舞台が現実かどうかというのは、必ずしもリアリティーを追求することではないようだ。
とりわけ、エンターテイメントを想定していない作品における現実は、なかなか難しそうだ。以上の言うなれば昭和の人間関係のような雰囲気を作り出すには、そもそも、舞台を現代ではなく、少し前の時代にしなくてはならないだろうし、その頃の方が政治思想的にももう少し対立していたようにも思う。結局のところ、エンタメではない作品を作ろうとすれば、何かを敵に回さなければならないので、現代を舞台にするとなれば、何かしらの性的趣向や、ブラック企業や、あるいは政府? など色々あるだろうが、そうした現代の問題を題材にした作品を読むぐらいなら、ノンフィクションの方が面白そうな気もする。読まないが。
ノンフィクションと私小説の違いは何かということに、そういえば、あまり疑問を抱く人は少ないような気もする。私小説というもの自体が少し文学をかじった方々には一般的な用語で、その割には、自伝小説や身辺雑記小説などとの違いではなく、大正時代あたりの白樺派(というよりは志賀直哉)の心境型と、奇蹟派の破滅型の作品群を一まとめにして私小説と呼んでいるようだ。どちらの作品も現実を舞台にしていて、主人公が作家自身かのように描かれていることから、作家自身の実際の話かのように見せている作品群を「私小説」と認識していることだろう。また、人によっては「私」を用いた一人称小説を私小説と呼ぶ人もいる。非常にややこしく、面倒くさく、また、発言した方の定義を一々聞かなければ理解もできないような腹立たしい用語には違いない。
私小説という分野をどの時代の、どの範囲のものについて言っているのか次第ではあるが、作者=主人公という構図で当時が舞台のものを「私小説」とするならば(全くこうまで書かなければならないあたりが、非常に面倒くさい分野である)、その良さを理解するのに徳田秋声の『街の踊り場』などをおすすめしたい。とはいえ、古い作品なので、本作は漬物のような味わいかもしれないが、巧みな構成や比喩の用い方などは見事なものだったと記憶している。少なくとも、作者が実際に体験した出来事を羅列するだけでは小説ではないことが、よく分かる作品となっている。ただ、これは結局分析が必要なので(つまり、国語教育ではなく、文学研究なので)、登場人物の心情云々を考えるというものではなく、作中の構成や意図を読み解かなければならない。こんなものはオタクがやることなので、結局のところ、私小説自体がオタク向けの分野かもしれない。

雑記「年齢」

今年で、というよりもあと数日で29歳になってしまう。年上の方々からすると、何を言っているのかねという話に過ぎないかもしれないが、なんだかんだ25を迎えてから毎年衝撃を受けているように思う。いや、26や7はまだなんともと思いつつ、28になると嘘だろう? と驚きつつ、そして29? 本当に? そんな気分だ。
 別に年齢を気にしているわけではないと言いたいところだが、さすがにここまで自分が生きているものかと驚いたり、よくぞ警察沙汰になるようなことをしてこなかったと思ったり、不吉なことを少し並べてみたものの、これまでなかなかに苦労したような記憶があるので、29歳というのは驚かざるを得ない年齢なのだ。え、29なの? もはや29と打ち込むたびに驚く。来年30? え、30? 正気か? ちょっと前まで25だったのに。そんな気持ちになる。
 大学から大学院の生活をしていたせいもあるのかもしれない。あるいは、高校を休学していた期間も相まっているのかもしれない。それにしても、来年30か。え、30? 本当に? 来年が来たら僕はまたどんな反応を示すだろう。実際30になる。つまり、色々な書類などにおける生年月日を書くたびに「え、30なの?」と驚くわけだ。え、30なの? いや、30かぁ。と思っていたら、次は34あたりでもうすぐ35になることに驚き出すわけだな。そこまで生きているかはともかく、年月は恐ろしい。どうもここ十年間は精神的に忙しなく生きてきたように思うので、この29を迎えるという事実に驚きを隠せないでいる、ということにしておこうな。よし。
 それにしても、29である。梶井基次郎的には『闇の絵巻』の時期か。井伏鱒二はまだ山椒魚も書いていないではないか。それはともかく、29か。え、本当に?