彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「私小説」

現実世界を舞台にした小説は今は人気が出ないのかねえ、という節を教授が言っていた。どこに着目してリアリティーにするかが問題な気もする。
実際、現実を舞台にしても面白いドラマを作る要素はそれほど変えられそうもない気がする。ジャンルという意味では、仮にファンタジーやSFだとしても、恋愛、コメディ、推理もの、などの物語の筋となる部分は変わらない。想像のしやすさや、今の社会において舞台にしたい場所がどれだけあるのか、という違いになるのだろうか。現代にしすぎるほど、隣家や隣人同士の交流も少なくなりがちなので、物語を作りづらい、あるいは、その物語が不自然に見えてくるだろう。漫画やドラマ、あるいは劇などは、それらがあくまでも虚構に過ぎないというある意味ではとても冷めた視点で鑑賞できるので、こんなこと現実には起こりえないよね、などと考えること自体が野暮ったいという暗黙の了解があるようにも思う。とはいえ、実際に虚構と同じように暮らしていきたい、人と接していきたいと思う人は多いと思うので、冷めた視点というよりも、鑑賞者は理想的な物語に心惹かれるということなのかもしれない。舞台が現実かどうかというのは、必ずしもリアリティーを追求することではないようだ。
とりわけ、エンターテイメントを想定していない作品における現実は、なかなか難しそうだ。以上の言うなれば昭和の人間関係のような雰囲気を作り出すには、そもそも、舞台を現代ではなく、少し前の時代にしなくてはならないだろうし、その頃の方が政治思想的にももう少し対立していたようにも思う。結局のところ、エンタメではない作品を作ろうとすれば、何かを敵に回さなければならないので、現代を舞台にするとなれば、何かしらの性的趣向や、ブラック企業や、あるいは政府? など色々あるだろうが、そうした現代の問題を題材にした作品を読むぐらいなら、ノンフィクションの方が面白そうな気もする。読まないが。
ノンフィクションと私小説の違いは何かということに、そういえば、あまり疑問を抱く人は少ないような気もする。私小説というもの自体が少し文学をかじった方々には一般的な用語で、その割には、自伝小説や身辺雑記小説などとの違いではなく、大正時代あたりの白樺派(というよりは志賀直哉)の心境型と、奇蹟派の破滅型の作品群を一まとめにして私小説と呼んでいるようだ。どちらの作品も現実を舞台にしていて、主人公が作家自身かのように描かれていることから、作家自身の実際の話かのように見せている作品群を「私小説」と認識していることだろう。また、人によっては「私」を用いた一人称小説を私小説と呼ぶ人もいる。非常にややこしく、面倒くさく、また、発言した方の定義を一々聞かなければ理解もできないような腹立たしい用語には違いない。
私小説という分野をどの時代の、どの範囲のものについて言っているのか次第ではあるが、作者=主人公という構図で当時が舞台のものを「私小説」とするならば(全くこうまで書かなければならないあたりが、非常に面倒くさい分野である)、その良さを理解するのに徳田秋声の『街の踊り場』などをおすすめしたい。とはいえ、古い作品なので、本作は漬物のような味わいかもしれないが、巧みな構成や比喩の用い方などは見事なものだったと記憶している。少なくとも、作者が実際に体験した出来事を羅列するだけでは小説ではないことが、よく分かる作品となっている。ただ、これは結局分析が必要なので(つまり、国語教育ではなく、文学研究なので)、登場人物の心情云々を考えるというものではなく、作中の構成や意図を読み解かなければならない。こんなものはオタクがやることなので、結局のところ、私小説自体がオタク向けの分野かもしれない。