彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「なんぎなこと」

ファンタジー作品というものを厳密には書いたことがない。細かな定義は難しいものの、幻想とファンタジーは全く異なるものだと考えている。そもそも、どの部分で分類するかという意味でも、ファンタジーは舞台設定に終始するだろうし、幻想はより広範囲な意味合いを持つことだろう。現実を舞台としながらも怪異が出てくるだけで幻想となることもあれば、語り手が不思議な視点で物事を語りながらも同時に一人歩きし始めても幻想といえる。つまるところ、泉鏡花も幻想であれば、マジック・シュールレアリズムも幻想だ。
さて、ファンタジー作品を作ろうと考えたことはあるのだが、結局土台となる概念は既存のものに寄らざるを得ない問題が付き纏い、書く気もなくなっている。エンタメ作品を一つぐらいやってみたいと思っていたが、使われている設定を用いるというのはなかなか楽しく作れる気がしない。例えば、魔法というものがその世界に存在するとして、どの程度普及されているのか、また、普及の度合いによって文明がどの程度進んでいるのか、という問題がある。これがエンタメのお約束とでもいうのか、ビジュアルで好まれる作風だと度外視されていることも多い印象がある。
詳しい設定を知らないので印象の話にならざるを得ないが、例えば、ドラクエにおける文明の発達度合いは? つまり、火や氷や雷を出せるというのに、街は貧相なものだ。機械が必要ないとしても、その代わりとなるもの、魔法によってもう少しハイテクになりそうな気がするのだが。
スカイリムやウィッチャーなどは魔法自体が嫌われているので、生活する人々にとっては無縁なものとなっている。そうなると、魔法自体が小さなコミュニティでしか使われず、問題を起こしたくもないだろうから、貧困に苦しむ村が出てきても何もおかしくは感じない。貧困になるほど排他的になるということだろうか。
もちろん、このリアリティーの差でドラクエの方が劣っていると言いたいのではない。スカイリムやウィッチャーの方が好みには違いないが、ドラクエは細かな設定を省いた上で(デフォルメ? デフォルト?)、あくまでもプレイヤーを中心に世界が動いている。魔法はゲームシステム上の戦略性や利便性を高めるためのもの、ぐらいの認識なのかもしれない。ある意味、メタに近いかもしれない。
ただ、このデフォルメされた世界観というのは、文章では表現するのが難しそうだ。あくまで小説は受動的な(文章を追う)ものであって、能動的に楽しむことはできないので、こうした突っ込みどころと言える箇所は作品の粗に感じてしまう。幻想的、というよりもシンボリズムな作品であれば、こうした粗と思われそうなところも、一つの役割として捉えやすいのだが、そういう作品はエンタメにならない。頭をこねくり回しながら読むタイプのものだ。
また、最近考えたのは言語の問題だ。日本語でファンタジーを語るというのも、エンタメに慣れた方々すれば何とも思わないことだろうが、どうにも「日本語に訳されたもの」という体が欲しくなってしまう。これは僕があくまでも現実を土台として作品を考えるためなのだが、この辺もお約束として流されがちな問題だ。アニメなどは特にそのような傾向があるものの、人間をデフォルメしたデザインという意味では、例えば「アムロ・レイ」が日本語を喋っていようとまったく違和感がない。僕が慣れてしまったのかもしれないし、デフォルメされることで現実世界とは切り離されたものと認識されやすいのかもしれない。
とここまで書いてみたが、ハードルが高すぎるような気もしてきた。メタを意識しすぎると、虚構の約束事に疑問を呈していくことになるということだろうか。娯楽と芸術の違いは、メタの使い方や捉え方にあるのかもしれないなどと書いておこう。