彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「滑稽は難しい」

滑稽は難しい。無頼派と呼ばれる小説家たちがその昔いたのだが(太宰治坂口安吾石川淳織田作之助あたりだろうか)、別称で新戯作主義と呼ばれていたような記憶がある。確かに坂口安吾の村の話や、織田作之助の競馬の話なんかは馬鹿馬鹿しくて面白いもので(補足すると、意図的に馬鹿馬鹿しく作られたものだと思うので別に馬鹿にしているわけではない)、初めて読んだときは笑ったものだ。いわゆる、井伏鱒二が作り出してきた滑稽さに比べると、とても分かりやすいものだったように思う。
そして、自分もまた滑稽なものを作ろうか考えているのだが、これが意外に難しいと気づいた。というのも、誰かが書いていた気がするが、笑いの本質は結局のところ他者を馬鹿にすることに違いないと思ったのだ。
僕も人を馬鹿にすることはあるものの、難しいと感じたのは馬鹿にする裏にある正当性についてだった。例えば、誰かを馬鹿にしたとき、「自分は大丈夫」という意識が働いている。自分は正しいからこそ、この人物は馬鹿なのだと思うことができる。ほとんど無自覚な人も多いと思う。これが難しい。
日常的な会話なら、人を馬鹿にすることもままある。様々な会話の流れで必要なこともある。これは相手も自分も互いに見知った同士だから成立しているわけで、作品に自分の正しさを描こうとするのは話が変わってくる。ただの気持ちが主張になってしまう。とりわけ、一人称で作ると厄介だ。もちろん、一人称=作者と結びつける読み方は安易なうえに、基本的に推奨したくないが、不快な主張はそれだけ=に結びつけやすい気もする。不快の矛先が作者に向きやすいとでも言おうか。
せめて、全知的な視点でキャラクターの一人がそう考えているにすぎないようにすればまた別の話だと思いたいのだが、エヴァ関連の話題を見ると、そう単純なものでもないようだ。物をたくさん売るにはキャラクターが必要で、エヴァはアニメの登場人物だけでなく、監督そのものがキャラクターになった印象がある。

雑記「作品と私小説」

エヴァンゲリオンが終わった。賛否両論らしいのだが、色々聞いているとあまり見なくてもいいような気がしている。どうも、僕はそれほどエヴァが好みでもないようだ。
別に嫌っているわけでもなく、テレビ、旧劇、新劇となんだかんだ見てきたものの、どこを楽しんでいたのかを考えると、ケレン味を楽しんでいた節がある。いまいち分からないものの、数値や得体の知れなさで何か凄いことが起こるらしいことが伝わってくる、というのが面白かった。つまり、あまりキャラクターに肩入れするような楽しみ方もしなければ、考察して楽しむようなこともなかった。エヴァにおける考察は、設定の解明に終始している印象があり、テーマや演出の細かさはあまり重視されていない印象がある。
僕自身、テーマ自体はキャラクターが説明していたり、演出の細かさ(というよりも、キャラクターの描写?)にはあまり興味を抱けなかったりするので、やはりカメラワークも含めてのケレン味を楽しんでいた気がする。そうなると、エヴァファンの情熱には少しついていけない気がしている。特に、最新作は情熱的なファンほど良くも悪くも感動するようなので、どうにも敷居が高いコンテンツだと感じてしまった。
エヴァは監督の私小説であるという評価も見たことはあるが、そう思わざるを得ない点がいくつかあるためだろうと推測する。私小説についての話を細かくするとややこしくなるので省くものの、一般的に「私小説」とは、身辺雑記的な意味合いで扱われている。人によって、肯定的にも否定的にも使われる用語だ。
おそらく、エヴァはテーマや人物が分かりやすいために、監督の精神状態が物語に反映されやすいと思われて、結果的に私小説と捉えられているのかもしれない。作品の構造自体から、自然と監督のファンやキャラクターのファンにもなりやすいということだろう。
僕はあまり監督やキャラクターに興味がないので(ただ、ミサトは生々しく嫌な感じの女だったと記憶している)、楽しむにしても演出面に終始しそうなのだが、少し食傷気味な気持ちになっている。あまりにも、世の中キャラクターを中心に作品を楽しむ人が増えたような気がして(もちろん、僕がそういう人の話を聞いたり、見たりするせいなのだ)、そんな人々を増やした代表がエヴァンゲリオンなんじゃないかと思ってしまっている。もう少し静かになってから、さらっと見ておきたい。

雑記「SFとリアル」

エイリアンコヴェナントだったかで、同性愛者が船員にいるのはおかしいというコメントを見た。昨今のポリコレを意識した配慮かもしれないが、たしかにSF的にはおかしく感じる。ざっくり言うと、コヴェナント号に乗った船員たちは新しい植民地となる星を探し続けているという設定なのだが、植民地という設定を考えると、同性愛者を乗船させるのは不思議かもしれない。人手を増やすには、どうしても子供を作らなければならないので、船員の候補として適当ではないのでは? ということだ。
宗教で同性愛を禁じていたのも、同じような理由ではないかと思う。子供を増やさなければ国も繁栄しないので、人手を増やせないことは悪いことと認識させようとしたのだろう。もちろん、今は増えすぎたと言っても過言でもないようなので、同性愛をひけらかすことも、また、そうした文化が表に出てくることも、大きく咎める人は差別主義者以外ではそれほどいないのではないかと思う。
日本の場合は、同性同士のキャラクターの交わりに楽しみを見出す層も増えてきた? あるいは、表に出しやすくなってきた。ただ、本当にLGBTの方々は、今尚自分がマイノリティであるということを自覚して生きていることだろうし、別に生きやすい社会とも感じていないだろう。率直に言えば、例えば、腐女子はゲイを好んでいるのではなく、根本的には自分を愛しているに過ぎないので、腐女子の方々が表に出るからと言って、LGBTの苦しみが緩和されたり、理解されることもあまりないと思う。あくまでも、腐女子は虚構に描かれた都合のいい恋愛模様に惹かれているので、生々しい現実のゲイには嫌悪感さえ湧きかねない。
虚構的なグロテスクを好む人で、本当にグロテスクな場面は好めないという人もいる。腕が切られて血が飛び出して、叫び散らすようなキャラクター描写を好みながらも、現実の人間が首を切られる様や、機関銃を撃たれてほとんど爆発しているような様などは見たがらない。あくまで、自分が見たい、自分なりの美しいグロテスクを見ていたいのであって、凄惨な、生々しい人間の虚しさを見たいわけではないようだ。と、ここまで書いてみたが、僕も別にリアルのグロテスクが好きなわけではない。ただ、活きがいい魚を捌いている時、その身体がピクピクと動いたり、跳ねたりする。これは確か反射というやつで、実際痛がっているわけではない。案外、人間もそんなもんだった。同じ動物ということだ。
SFはそういう意味でリアルであってほしいと思うが、万人に受け入れられるようにするには、まず差別意識につながりかねない要素を取り除くことから始まるのだろう。大衆に見られる媒体においては、成立しづらい分野になってきたかもしれない。スターウォーズもそれで荒れてしまったようだし、ラストオブアスも極めて賛否両論になった。結局、配慮する必要が生じたので、ストーリーを無理に捻じ曲げなくてはならなくなってきた? と、これらの作品には感じてしまう。面白さの前に、人を不快にさせないこと、が重視されてきたのかもしれない。前も書いた気がするが、その点フォールガイズって作品はすごいもんだな。

雑記「祖父」

数年前の今日、祖父が死んだ。何歳かも定かではないが、老衰で亡くなったようだ。祖父は仕事熱心な方だったようで、ほとんどの人生を内科の仕事に費やしてきたと思われる。趣味らしいものもスキーしかなく、ちょっと足を悪くして以降はやらなくなった。それも相まってか、手の震えが抑えられなくなって、仕事を辞めてからは、一気に認知症が進んだようだった。
しかし、生命力とはすごいものだ。認知症になってからというもの、人目を気にせず自室で自慰をしていたこともあった。死が近づくと子孫を残したくなるものらしいと聞いたことはあるが、まさにその通りの行動だったのかもしれない。
僕の父もまた、クリニックを継いだ医師なので、祖父の今後をどうするか兄弟や母(僕からすれば祖母)と話し合ったらしい。兄弟たちは少しずつ栄養を減らして衰弱死させるのが良いという結論に至っていたようだが、祖母は受け入れられなかったようだ。なんだかんだ祖父はできる限り延命された。
だが、気持ちだけでは介護は続かないものらしい。祖父は夜な夜な叫び出したり、急に外出たりされるので祖母も心底疲れたことだろう。亡くなってからは少しホッとしていたようにも思う。
どうやら、死ぬにしてもなかなか苦労をかけるものらしい。迷惑を考えると、うかうかと死ねないのも困った社会な気もする。

雑記「生存本能」

人に興味がない人がいる。これは厳密には、他人に興味がないという話なので、逆に言えば、自分に興味があるのだろう。逆説的に、という考えはなかなか面白い。
例えば、八方美人の方はコミュニティに所属していること自体に価値を置いているのかもしれないし、当人にとっての問題意識がそこにあるのかもしれない。たくさんの人と交流することで安心を覚えている、という方も多いだろう。
そういえば、ある本では、SNSは承認欲求ではなく生存本能を満たしているとの話が書かれてあるらしい。僕はSNSが承認欲求を満たすための道具だと思っていたが(不特定多数に見られる場所に書き込む以上、そこに承認欲求が含まれないはずがないと思うのだ)、おそらくその本では承認欲求どころか、生存本能に直結しているのだと書かれてあるのだろう。気になるので、いずれその本は買ってみたいと思う。
なんの気ないツイートにしろ、表現者の苦労話にしろ、どちらにせよ、人に見られる前提で文章を作るわけで、根本的には理解されたくて呟き続けているのではないかと思ったりする。例えば、深夜に食う飯はうまいなどと書き込む人もいて、それに共感する人もいる。共感された側は少し嬉しくなる。自分の考えが他者と共有されることの喜びを味わえるのだ。そうでなくても、暗いことを書けば心配もされるし、表現者が苦労話をすればファンはありがたがることだろう。素直に話を聞いてくれ、同情してくれ、見てくれ、とは言いづらい。嘘松という文化もあるが、あれも良い例だろう。
僕はこのような承認欲求をあまり好めないが、生存本能という捉え方をすると納得できなくもない。人間もなんだかんだ集団で暮らす生き物なわけで、一人で生活することは不可能だ。誰もが色々な仕事をするために生活が成立している。コミュニティに所属することに価値を置くことは当然なわけで。
多分よりこのことを詳しく話すには、僕自身マズローなりをより知っておく方が良さそうだ。結局これらの文章は、新しいものを嫌悪する時代遅れの感覚に過ぎないのかもしれない。とはいえ、僕はツイッターに自分のことを書き込む気にはなれない。そこまで不特定多数の人間と仲良くなりたくもなければ、知られたくもない。仲良くなれそうな人だけと仲良くなりたいものだ。というより、それより作品を読んでくれ。その方がずっと嬉しい。

雑記「変化」

春は自殺が多いと聞く。現状が不安な上に、新しい生活の不安に苛まれやすいのかもしれない。実際、僕もそうなりがちだ。
古事記における須佐之男命は、自らの穢れを浄化するために川に入り、髪を切ったという話を講義で聞いたことがあるような気がする。「ような気がする」と書いたのも、正確に伝えなければならないと思いながらも、わざわざ調べる気にもなれないからだ。生活の変化は、この穢れの浄化と似たようなものだと思ったりする。
これは春に限らず、年中無休な変化でもある。恋人の友人が、彼氏に飽きられていると不安になっていたそうなのだが、その彼氏もまた、一つの心の変化が起きているかもしれない。この変化も細かなものだ。新しく惹かれるものを見つけた可能性もあれば、少し付き合うことに疲れてきたのかもしれない。人間同士だからこそ、どのような変化が起きるか分からない。主観的に見れば、ほとんど無作為のようなものだが、だからこそ人間は面白い。分からないことは恐ろしくもあるが、面白くもある。
相変わらず小説のことばかりだが、このような不条理の肯定は、過去の作品でも繰り返してきたテーマだ。しかし、僕は不条理の一面しか見ていなかったようだ。必ずしも、不条理は不幸な感情だけを示しているのではなく、幸福な感情さえも不条理なのだ。結局、「相対」そのものが不条理だ。
そう考えると、人間はいいものだ。僕も人見知りはするし警戒心は強いものの、それもまた、僕という人間の特性以上の意味は何もない。

雑記「表紙を変えたよ」

今更短編集の表紙を変えた。約一年近くぶりの変更だが、気分転換のようなものなので、とりわけ意味もない。ただ、よりそれっぽいものに変えたと思っている。
画像はここにも貼ろう。
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あと元の画像も貼ろう。
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元の画像を加工して、加工したものをさらに加工して、この工程を何度も繰り返したものが表紙となっている。訳あって画像編集アプリを試していたところ、「悲しみのない世界」のPVを思い出したのでやってみた。これが意外と作品との兼ね合いがよさそうに思えてきたので、さっそく変えてみたのである。
とりあえず、この記事はこれぐらいだ。気になったら買ってもらいたいが、僕の口座はなぜか登録されないので、相変わらず手元に一銭も入らない。面倒臭いのでまだ泳がせておこうと思っている。さすがに消えるのか? まさかな