彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「生存本能」

人に興味がない人がいる。これは厳密には、他人に興味がないという話なので、逆に言えば、自分に興味があるのだろう。逆説的に、という考えはなかなか面白い。
例えば、八方美人の方はコミュニティに所属していること自体に価値を置いているのかもしれないし、当人にとっての問題意識がそこにあるのかもしれない。たくさんの人と交流することで安心を覚えている、という方も多いだろう。
そういえば、ある本では、SNSは承認欲求ではなく生存本能を満たしているとの話が書かれてあるらしい。僕はSNSが承認欲求を満たすための道具だと思っていたが(不特定多数に見られる場所に書き込む以上、そこに承認欲求が含まれないはずがないと思うのだ)、おそらくその本では承認欲求どころか、生存本能に直結しているのだと書かれてあるのだろう。気になるので、いずれその本は買ってみたいと思う。
なんの気ないツイートにしろ、表現者の苦労話にしろ、どちらにせよ、人に見られる前提で文章を作るわけで、根本的には理解されたくて呟き続けているのではないかと思ったりする。例えば、深夜に食う飯はうまいなどと書き込む人もいて、それに共感する人もいる。共感された側は少し嬉しくなる。自分の考えが他者と共有されることの喜びを味わえるのだ。そうでなくても、暗いことを書けば心配もされるし、表現者が苦労話をすればファンはありがたがることだろう。素直に話を聞いてくれ、同情してくれ、見てくれ、とは言いづらい。嘘松という文化もあるが、あれも良い例だろう。
僕はこのような承認欲求をあまり好めないが、生存本能という捉え方をすると納得できなくもない。人間もなんだかんだ集団で暮らす生き物なわけで、一人で生活することは不可能だ。誰もが色々な仕事をするために生活が成立している。コミュニティに所属することに価値を置くことは当然なわけで。
多分よりこのことを詳しく話すには、僕自身マズローなりをより知っておく方が良さそうだ。結局これらの文章は、新しいものを嫌悪する時代遅れの感覚に過ぎないのかもしれない。とはいえ、僕はツイッターに自分のことを書き込む気にはなれない。そこまで不特定多数の人間と仲良くなりたくもなければ、知られたくもない。仲良くなれそうな人だけと仲良くなりたいものだ。というより、それより作品を読んでくれ。その方がずっと嬉しい。