彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「オーバーウォッチについて」

オーバーウォッチというゲームがある。MOBA要素を取り入れたFPSで、もう発売して五年ぐらい経ったはずだ。僕もかれこれ4年ほど遊んでいる。
 現状、オーバーウォッチは人が足りなくなっている。マッチングが遅いという話ではなく、おそらく内部レート的に極端なマッチングが少し増えてきた。どの対戦ゲームにおいても知識と判断力は重要だが、オーバーウォッチはその差を感じやすい。エイム以上に立ち回りが重要なせいだろう。エイムが上手いだけではなかなか勝てないのだ。
 そんなわけで、カジュアルプレイでは個人成績から敵味方双方の内部レートが均一になるように配置されている? と思われるのだが、ここ半年ぐらいからどうも均一ではなくなってきたように感じる。単純に人が減ったせいなのかもしれないし、誰かと組む場合の補正もありそうなので細かなことは言えないが、勝つにしろ負けるにしろ、その原因が知識量や判断力の差異に起因している印象が強くなってきた。
 オーバーウォッチは30人ぐらいのキャラクターから一人を選び戦うというルールだが、試合中にキャラクターを変更できるということは、状況次第で適切なキャラクターに変更しなくてはならない。だが、中には特定のキャラクターばかり使う人々も多い。ポップでバタ臭さはあまり感じず、背景やボイスラインによる性格の表現なども見事なので、キャラクターに引き込まれるのもよく分かる。ただ、それが前述したゲーム性とは矛盾しているので、基本的には特定のキャラクターだけを使う人は周りが合わせなくてはならなくなる。マップや相手次第では、それだけで不利にならざるを得ない。
 僕はヒーラーを中心に使っていたのだが、なかなか難しい職だと感じる。キャラ数は少ないものの、逆に少ないということは、それだけ特定の状況やマップ次第で適切なキャラクターに変える必要性がより強い(つまり、キャラ数が少ないということはそれだけ各ヒーラーごとの癖の違いが大きいのである)わけで、勝つためにはどのヒーラーもある程度使えた方が良いのだ。他の職以上に使えた方が良いキャラが多い。
 また、多くのヒーラーはエイムが下手でも回復することができる。FPSが苦手なプレイヤーほど、ヒーラーを選びやすいだろう。立ち回りも基本的には後衛なので、タンクほど責任を負わなくてもいい気持ちになれる。何より回復だけすればいいという考えに至りやすいので、勝てない理由を他のプレイヤーに押し付けやすい。
 この「押し付けやすい」という問題はヒーラーだけにとどまらない。互いに負けた試合の原因を押し付け合おうとすることもしばしばある。例えば、裏を取られているのにヒールが間に合わないと文句を言う人もいれば、周りを見れずヒールが回せていないのにアタッカーを責める人もいる。どれだけ俯瞰的に分析できるかどうかが重要だと思うのだが、そうなると、どうしてもカジュアルプレイ自体の敷居が上がってしまう。
 カジュアルプレイだからと言って、特定のお気に入りキャラを使い続ければいいというものではない。結局のところ、勝ちたいことには変わりないし(勝負事はカジュアルだろうと勝ちにこだわりたいものだろう)、ゲームのルール上特定のキャラを使うだけでは勝てないようにできている。せめて各ロールで数キャラは使えるようにしないと、偏った視点で戦況を分析しかねないし、他のロールを知ることでより場面ごとの適切な動きが分かるだろう。こうした前提が6vs6の合計12人で成立するかというと、やはり現状の人口では難しいようだ。長くプレイしている人でさえ、そのことを理解していないような動きをすることもある。
 敷居が高い割には、魅力的なキャラクターなどのライト層を取り込める要素が多かったのが、これが現状のオーバーウォッチに至る原因だったように思う。定石を気にせず、お気に入りのキャラクターを使う味方がいると、それだけで詰む可能性が高まってしまう。最初のピックの時点で展開を読める試合が5分10分続くのは苦痛だ。この苦痛は僕だけのものではなく、他のチームプレイヤーも、固定ピックをするプレイヤーも、なんなら一方的すぎた試合なら対戦相手さえも感じることだろう。誰も得をしないのだ。これが初心者ならまだ諦めはつくものの、100時間は優に超えているプレイヤーでもなかなか多いのだから、人が減るのも無理はないのかもしれない。キャラクター好きと対戦好きは共存できない。ポケモンなんかいい例だろう。あれほど棲み分けできているものもないように思う。
 愚痴というよりも、残念というのか、失敗というのか。オーバーウォッチ2にはあまり期待していない。キャラやストーリーの掘り下げは楽しみだが、同時にストレスになる試合も増える可能性がある。ある程度の定石は、チュートリアルで紹介された方が良いように思う。例えば、6vs6なのだから、一人死んだらそれだけ有利不利が生まれるなど。敵が減れば押せるし、仲間が減れば下った方がいい。こんなもん当然ではあるものの、それさえ分からない人も中にはいるのだ。

雑記「モチーフ」

世の中には様々な表現があるものの、どちらかというと、突拍子のないファンタジーにはその役割を担う意味が込められていないと気が済まない質なので、モチーフというものはどうも意識せざるを得ない。
 昔読んだ学生の作品の中に、唐突にドラゴンが出てきて冬を吹き飛ばし春にするというものがあった。このドラゴンが何を意味しているのか、なぜドラゴンなのかは当時の僕には読み取れなかったが(日本的な龍ではなくドラゴンなことも不可解だった)、ジュブナイル? ライトノベル? あるいは、同人界隈の発想のように思ったので、それほど意味があるとは思えなかった。とはいえ、とても大雑把な書き方をすると、季節を変えるほどに強い存在が作者にとって「ドラゴン」だったということなので、「ドラゴン」は絶対的な力を持つ存在ぐらいの認識でいいのだろう。もっと言えば、季節が変わることの理由にドラゴンを据えるというのにロマンがあったぐらいのことだと思う。
 思うに、シュルレアリスムとマジックレアリズムとファンタジーの境界線は曖昧なものだか、結局のところは作中の意味の範囲の違いかもしれない。例えば、ファンタジー作品におけるエルフが排他的に描かれているとすれば、それは自分たちの文化を守るという保守的な集団を描いているものであって、「エルフ」という人間ではない存在自体には特別な意味が込められていない可能性がある。つまり、現実における保守的な考えの人々を一括して「エルフ」と置き換えたのである。
 逆に、骸骨などは分かりやすい。「死」にまつわる何かの象徴であって、ヴァニタスやらメメントモリやらという思想で描かれている。最近読んでいる『やし酒飲み』においても、骸骨の紳士が出てきたりする。いずれも、「死」となんらかの向き合い方をしているように思う。
 両方混ぜて用いる場合もあると思うので、一概にどちらがどちらなのかは言い難い。ただ、僕が例のドラゴンをあまり好めなかったのは、「太陽」を「ドラゴン」に置き換えただけだと感じたからかもしれない。「太陽」そのものが絶対性を有していると思うので、それを生物に置き換えてしまうことで、むしろ、元々のある種の神秘的な、超常的な? 圧倒的な光と熱を前にしては、人間など無力に過ぎないではないか。人間は太陽の機嫌一つで簡単に滅ぶのだ。こんなにすごいものはない。
 実際、ドラゴンにどのような役割を持たせるのかというのは難しい。ファンタジーは架空の生物を現実に当てはめるので、隠居気味の富裕層だとかがいい塩梅な気もする。シュルレアリスムとなると、ドラゴンはおそらく用いない。シュルレアリスムは象徴の連続だと思うので(例えば、ダリの時計の絵で言えば、「時計」は時間を示すものであって、「時間」は私たちの生活の基盤であって、「生活の基盤」とは日常でもある。その「時計」が溶けているということは、日常が壊れていくとも受け取れるだろうし、溶けてほしいという願望とも受け取れる。あるいは、作者にとっての日常の感覚か「溶けている時計」なのかもしれない。また、背景が荒野というのもより崩壊を描いているようだ)、架空の生物を出すという表現にはそぐわないたろう。「鏡の国のアリス」などは両方の面が混ざっているような気がする。読んだことはないが。
 適当に書いてみたが、実際どうなのかは謎だ。とりあえず、メモがてらに。

雑記「私小説」

現実世界を舞台にした小説は今は人気が出ないのかねえ、という節を教授が言っていた。どこに着目してリアリティーにするかが問題な気もする。
実際、現実を舞台にしても面白いドラマを作る要素はそれほど変えられそうもない気がする。ジャンルという意味では、仮にファンタジーやSFだとしても、恋愛、コメディ、推理もの、などの物語の筋となる部分は変わらない。想像のしやすさや、今の社会において舞台にしたい場所がどれだけあるのか、という違いになるのだろうか。現代にしすぎるほど、隣家や隣人同士の交流も少なくなりがちなので、物語を作りづらい、あるいは、その物語が不自然に見えてくるだろう。漫画やドラマ、あるいは劇などは、それらがあくまでも虚構に過ぎないというある意味ではとても冷めた視点で鑑賞できるので、こんなこと現実には起こりえないよね、などと考えること自体が野暮ったいという暗黙の了解があるようにも思う。とはいえ、実際に虚構と同じように暮らしていきたい、人と接していきたいと思う人は多いと思うので、冷めた視点というよりも、鑑賞者は理想的な物語に心惹かれるということなのかもしれない。舞台が現実かどうかというのは、必ずしもリアリティーを追求することではないようだ。
とりわけ、エンターテイメントを想定していない作品における現実は、なかなか難しそうだ。以上の言うなれば昭和の人間関係のような雰囲気を作り出すには、そもそも、舞台を現代ではなく、少し前の時代にしなくてはならないだろうし、その頃の方が政治思想的にももう少し対立していたようにも思う。結局のところ、エンタメではない作品を作ろうとすれば、何かを敵に回さなければならないので、現代を舞台にするとなれば、何かしらの性的趣向や、ブラック企業や、あるいは政府? など色々あるだろうが、そうした現代の問題を題材にした作品を読むぐらいなら、ノンフィクションの方が面白そうな気もする。読まないが。
ノンフィクションと私小説の違いは何かということに、そういえば、あまり疑問を抱く人は少ないような気もする。私小説というもの自体が少し文学をかじった方々には一般的な用語で、その割には、自伝小説や身辺雑記小説などとの違いではなく、大正時代あたりの白樺派(というよりは志賀直哉)の心境型と、奇蹟派の破滅型の作品群を一まとめにして私小説と呼んでいるようだ。どちらの作品も現実を舞台にしていて、主人公が作家自身かのように描かれていることから、作家自身の実際の話かのように見せている作品群を「私小説」と認識していることだろう。また、人によっては「私」を用いた一人称小説を私小説と呼ぶ人もいる。非常にややこしく、面倒くさく、また、発言した方の定義を一々聞かなければ理解もできないような腹立たしい用語には違いない。
私小説という分野をどの時代の、どの範囲のものについて言っているのか次第ではあるが、作者=主人公という構図で当時が舞台のものを「私小説」とするならば(全くこうまで書かなければならないあたりが、非常に面倒くさい分野である)、その良さを理解するのに徳田秋声の『街の踊り場』などをおすすめしたい。とはいえ、古い作品なので、本作は漬物のような味わいかもしれないが、巧みな構成や比喩の用い方などは見事なものだったと記憶している。少なくとも、作者が実際に体験した出来事を羅列するだけでは小説ではないことが、よく分かる作品となっている。ただ、これは結局分析が必要なので(つまり、国語教育ではなく、文学研究なので)、登場人物の心情云々を考えるというものではなく、作中の構成や意図を読み解かなければならない。こんなものはオタクがやることなので、結局のところ、私小説自体がオタク向けの分野かもしれない。

雑記「年齢」

今年で、というよりもあと数日で29歳になってしまう。年上の方々からすると、何を言っているのかねという話に過ぎないかもしれないが、なんだかんだ25を迎えてから毎年衝撃を受けているように思う。いや、26や7はまだなんともと思いつつ、28になると嘘だろう? と驚きつつ、そして29? 本当に? そんな気分だ。
 別に年齢を気にしているわけではないと言いたいところだが、さすがにここまで自分が生きているものかと驚いたり、よくぞ警察沙汰になるようなことをしてこなかったと思ったり、不吉なことを少し並べてみたものの、これまでなかなかに苦労したような記憶があるので、29歳というのは驚かざるを得ない年齢なのだ。え、29なの? もはや29と打ち込むたびに驚く。来年30? え、30? 正気か? ちょっと前まで25だったのに。そんな気持ちになる。
 大学から大学院の生活をしていたせいもあるのかもしれない。あるいは、高校を休学していた期間も相まっているのかもしれない。それにしても、来年30か。え、30? 本当に? 来年が来たら僕はまたどんな反応を示すだろう。実際30になる。つまり、色々な書類などにおける生年月日を書くたびに「え、30なの?」と驚くわけだ。え、30なの? いや、30かぁ。と思っていたら、次は34あたりでもうすぐ35になることに驚き出すわけだな。そこまで生きているかはともかく、年月は恐ろしい。どうもここ十年間は精神的に忙しなく生きてきたように思うので、この29を迎えるという事実に驚きを隠せないでいる、ということにしておこうな。よし。
 それにしても、29である。梶井基次郎的には『闇の絵巻』の時期か。井伏鱒二はまだ山椒魚も書いていないではないか。それはともかく、29か。え、本当に?
 

雑記「解決策がないこと」

解決策がない物事というのは意外に多いものだと感じる。最近だと、というよりも定期的にいじめで自殺者が出ると(厳密にはその自殺かいじめと判定されると?)報道機関で話題になる。下世話な話なんだろうが、人間の極端に悪い例を報道できる方が注目は浴びやすいのかもしれない。もちろん、このいじめ問題に真剣だからこそ報じるという方々もいるだろうと思いたいが。
とはいえ、いじめはどうにかできるものでもないように思う。結局のところ、少なくとも日本の社会では大抵の場合、どこか周囲と違うことが特異なわけで、それを受け入れられる国民性はあまり備わっていないように思う。この国民性というものは、歴史的なもののように感じる。
嫌な世の中だとつくづく思うのは、いじめる側は自分たちの位置を揺るぎないものにしたいがために(安心を得たいためにだろうか)、いじめを行うわけで、彼らもまたこの国民性というものに従順なわけだろう? それに学校も基本的には評判と関わるだろうから、問題が起きても基本的には隠蔽したがるようだ。昔付き合っていた方も、高校の頃に強姦されたことがあるものの、学校に隠蔽されたようだ。某自殺者が多い県の進学校の話だ。その方はある理由から坂口安吾が好みだったな。相変わらず、この話は不愉快なので、遠回しにこの学校を非難したくなる。
結局そうなると、学校機関を信用することもできず、ましてや性的な問題になると尚更話しづらくなる。八方塞がりの末に、自殺する人もいれば、PTSDを患って苦しんで生きていく人もいる。僕の思想的には、その不条理は受け入れざるを得ないものであって、肯定否定という話ではなく、人間が生きる以上は生じざるを得ないものと考えている。もちろん、それでは何の解決にもならない。そのために、僕は苦しんでいる人を救うことの方が重要に思う。いじめをなくすという発想は大事には違いないが、結局行き着く先はディストピア的なものになりかねない気もするので、現実的には今尚苦しんでいる方々に手を差し伸べることの方が重要ではないかと思ったりする。結局、人にどう思われようと追い詰められたら戦うしかないと思っているのだが、その戦うまでの勇気を持てない人も多いだろう。
しかし、教育方法を変えないと、どうしようもない気もする。狭い小屋に鶏の群れを入れると、いじめが始まるのと同じように、教室という空間が今の時代に合わないのだろう。北欧のような授業になれば、また変わったりするのだろうか。あるいは、国民性というものが結局いじめを引き起こすのだろうか。

雑記「問題意識」

問題意識を作品に落とし込むのは中々難しい。どのような問題意識にせよ、はじめは不快な感情から始まるものだ。社会的・精神的な弱者は報われなくてはならないと考える人もいれば、人と人は理解し合えないものだと結論づける人もいる。ただ、それを作品に昇華させようとするには、それなりの自惚れが必要な気もする。
何かを否定する以上、自分が正しいという意識は含まれる。これは誰しも当然持ちうる意識であって、どうやっても自分の正しさを否定することはできない。元来、人は利己主義だろう。ただ、集団生活に適応するための想像力と感受性が備わっているので、利己主義だからと言って、なんでも自分を優先という意味ではなく、結果的に自分のためになるように、利他的のように振る舞うことができる。無駄に書いてしまったが、この正しいという認識は誰しも持っているということだ。
ただ、作品にすると難しい。あくまでも人は利己主義であって、また、どうやっても主観によって生きるものなので、一つの正しさに賛同できる人間の数は限られている。そのため、テーマを考える場合、この正しさはより俯瞰的な視点で定めた方が理解できる層を増やせるように思う。それが普遍性を持たせるということだろう。
最近知った例を挙げると、SNSで何らかの問題を抱えている方に良き理解者であろうとする人々がいるそうだ。詳しくは知らないが、ある人がそういう理解者であろうとする方々を偽善的だと思い、自作の中でそうした方々を皮肉っていた。
偽善にしても、皮肉にしても、一つの利己主義であることには変わりない。また、どちらにせよ、演じるという意味では(つまり、偽善を向けることも、作品を作ることも、どちらも享受する側に脚色を加えているという意味では)虚構に過ぎないものであって、あまり違いがあるようにも思わない。それよりも、この偽善的な理解者はSNSを活用してその偽善を振舞っているのだから、それに皮肉を感じて作品に込めてしまうこと自体が、井の中の蛙とでも言うような印象を受ける。その理解者について何も分からないので、何とも言えないのだが、同情されて喜ぶ人がいるのなら、別にこうした偽善も何も悪いものとは思わない。根本的な解決を求めていない人など、別に珍しくもないからだ。
普遍性を持たせようと思うなら、その不満を大きなテーマに変えた方が良さそうだ。SNSによる偽善でしか繋がれない人々の関係に着目してもいい。それが虚しいものかどうかということではなく、人は一瞬の慰めでも目の前に甘い汁があればすすりたいものだよねだとか、その偽善を振る舞う精神性の裏には承認欲求が潜んでいるよねと考えてもいい。それはそれとして受け止めればいいのであって、何より大事なのは結局、これからどう生きていこうかという話だと思う。偽善も皮肉も、社会の構造やら何やらで結果的に生じたもののように思える。僕らはそれぞれの正しさを押し付け合う世の中で生きているわけで、そんな生きづらい中をどう生きるかの方が、真剣に考えたいテーマでもある。それはSNSという世界だけに留まらず、今生きている人々が抱える漠然とした不安ではなかろうか。

雑記「血縁」

血縁関係というものに、特別な何かがあると思い込んでいる方々がいる。僕の母もそうだ。おそらくは、僕の見た目が母の兄と似ているという理由で、母の兄と同じ道程を進むのではないかと心配している。簡単に言えば、麻薬を使い出すのではないか? と思われている。またまた、それは考えすぎだろう、とこの文章を読むあなたは考えるかもしれないが「まだ使ってないのか。よかった」などと言われるのだから、考えすぎということもないだろう。
しかし、母だけではないが、想像力や感受性があまり強くない方々は、むしろかえって、非科学的なもの、非合理的なものに惹かれる節があるのかもしれない。母の場合、容姿から発展して、犯罪者予備軍とまで考えられるわけだが、薬を使うかどうかというよりも、使わざるを得ない人々の心情と、僕自身がどう捉えていることが薬物を使うかどうかの問題だと思うので、この話を聞かされる身になれないこと自体が、とても不可解だ。不愉快でもある。久々に腹が立った。やはり母は人を怒らせることが得意なようだ。言っていることは、人の顔を見て犯罪者になると言い出すことと同じわけで、太古の占星術やら手相やら何やらまだともかくとして、2021年の現在に用いるような価値観とはとても思えないのだ。ここまでスラスラ書けるということは、やはりとても腹立たしいことらしい。
腹立たしいついでに言えば、母は元々パンクロックなどの左翼的なものを好む傾向がある。その割に、血縁の呪縛とでも言うようなものを肯定している節がある。どうも実際の自分から離れているものを好む傾向があるようだ。これでは、キャラ好きのオタクが理想的なキャラクターを求めることとそう変わらない。自分の不満や不安を真正面から見つめるのではなく、何かで逃れ続けることで、考えることを放棄しているように感じてしまう。
とはいえ、僕自身母がこのような人間なのだろうと結論づけるのに時間がかかった。そのように捉えて良いのか悪いのか、正しいのか間違っているのかはともかくとして、そう認めること自体が処世術となる。見下すというわけではなく、まったく異なる価値観を持つ人間、というだけの話になる。とはいえ、血縁関係である以上、今後も関わらずにいるというのは難しいので、結局酔っ払いの戯言などと半ば見下したような気持ちでいる方が聞き流しやすいだろう。つくづく、呪いだ。