彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「老婆心」

最近色々あって、我ながら井伏鱒二みたいなことをしていると感じた。実際の井伏鱒二がどうだったかは知る由もないので、この井伏鱒二は僕の思う井伏鱒二なのだが(うるせえな)、どうも老婆心というのは余計な気を張りがちだ。その余計な気というものが、また心地良い創作意欲へと繋がるかというと、まったくそんなものにもならない。改めて気づくのは、つくづく余計なこと言っているのかもしれないということである。
さて、僕が井伏ごっこしているとすれば、ごっこ遊びをさせてくる友人は太宰ごっこをしているというわけなのだが(といって、別に自殺をしようとはしていない。ただ、ちょっと冷静さに欠ける状態なのだ。元々の性質かもしれないが、自分自身でその性質を理解せずに突っ走ろうとしているのだ)、万人に効く薬というのもないので、長い時間が経てば落ち着いていくのか、それとも、一生それほど変わることなく生きていくのかは分からないが、やはり世の中、自分を愛してやまないがために攻撃的になる人はいるものらしい。愛するというのも、難しい表現だ。負の感情が強いために、棘を生やして守ろうとすることもまた、自分を愛するということなのだ。
どうもヤマアラシのジレンマなんてやつが近いようにも思う。エヴァンゲリオンではないか。たしかにこの友人もエヴァらしいやつなのかもしれない。厄介なやつなのだ。そして、なお厄介なのは、もし仮に「厄介なやつなのだ」と伝えた場合、そのまま「厄介なやつ」と受け止めようとする節があることだ。文脈全体から推察される感情ではなく、引っかかる言葉から浮かぶ負の感情に引っ張られがちなわけだ。
正直なところ、カウンセリングでも受けたらどうかとは思うのだが、当人にとってカウンセリングというのはあまり良い印象がないのかもしれない。風邪を治すような感覚で構わないと思うのだが、無駄な出費だとか、自らを狂人と確定させてしまうだとか、あるいは、自分自身に何の落ち度もなく健康的だとか、様々な思いから決してカウンセリングを受けることはないだろう。決してだ。しかし、実際のところ、方々で困っているところもあるわけで、他者が困るということは、なんらかの障害が起きていると捉えたほうが良いのではなかろうか。などと、考える。別にこの友人が勢い余って死んだところで、それはそれとして仕方ない結果でしかないのだが、生きている以上は老婆心も出てくるものだろう。
といっても、そろそろ、面倒になってきた。