彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記「余裕」

余裕があるからこそ、かわいそうと思えるのではないか、などと最近考えることがあった。例えば、豚を育てて食べる授業があるとかないとかって話を聞いたことはあるが、養豚場で働く方々はそれで生活を賄っているわけで、鼻っから生活が安定している子供たちとは全くわけが違うのだ。生活のために豚を殺さざるを得ないのと、命の大切さを学ぶために豚を殺めるかどうか考えるのは、全く異なる問題だろう。
なんらかの安全がある前提で、僕らは何らかの劣った存在に「かわいそう」などと考える。あまり気持ちのいい考え方ではないが、かといって、これもまた自然なことのように思われるし、僕自身も「かわいそう」と思うことがある。余裕があるからこそ、ある種の慈悲やら同情やらを向けることもできるわけで、劣っている人の中には同情を求めている方もいれば、同情でお金を集めようとする方もいる。
これは別に悪いことでもなんでもない。不幸な人だとか、困っている人だとかに声をかけることで、自分自身の不安から逃れられたりもする。下には下がいるだとか、不安を聞いているうちは自分自身に目を向ける必要もなくなるためだとか。なんだかんだ、同情をする側もされる側も利害が一致しているのだ。
愛玩動物というのも、人に愛玩されるための動物なわけで、やはり人間様の保護を受けざるを得ない存在たちだ。僕らはそんなエゴを理解した上で、猫やら犬やらを愛でる。あまりにも懐かない動物には愛着もわいてこないだろうし、凶暴すぎるなら処分されてしまう場合もあるのかもしれない。そうしたこともまた「かわいそう」というやつかもしれないが、僕は僕に懐く動物を愛するし、敵対する動物とは関わりたくない。とりわけ、愛玩動物は自分のために飼うものに違いないからだ。
エゴというものを肯定していけばいいのではなかろうか、などと思うのだが、突き詰めすぎると殺人の肯定ともなりかねないので、あくまでも社会的規範の内で考えたいところだ。ただ、本当に自分のエゴを信じて疑わない人々もいることは確かだ。大体の物事は、善悪で割り切れるものでもないのだろう。「かわいそう」と思うことも善悪ではない。こんなことは誰しも理解していると思ったりするのだが、案外そうでもない場合も多いのかもしれない。自分で取捨選択してきた認識の中の、多数の考えこそが「正義」と思い込むことも、ままあるからだ。

雑記「老婆心」

最近色々あって、我ながら井伏鱒二みたいなことをしていると感じた。実際の井伏鱒二がどうだったかは知る由もないので、この井伏鱒二は僕の思う井伏鱒二なのだが(うるせえな)、どうも老婆心というのは余計な気を張りがちだ。その余計な気というものが、また心地良い創作意欲へと繋がるかというと、まったくそんなものにもならない。改めて気づくのは、つくづく余計なこと言っているのかもしれないということである。
さて、僕が井伏ごっこしているとすれば、ごっこ遊びをさせてくる友人は太宰ごっこをしているというわけなのだが(といって、別に自殺をしようとはしていない。ただ、ちょっと冷静さに欠ける状態なのだ。元々の性質かもしれないが、自分自身でその性質を理解せずに突っ走ろうとしているのだ)、万人に効く薬というのもないので、長い時間が経てば落ち着いていくのか、それとも、一生それほど変わることなく生きていくのかは分からないが、やはり世の中、自分を愛してやまないがために攻撃的になる人はいるものらしい。愛するというのも、難しい表現だ。負の感情が強いために、棘を生やして守ろうとすることもまた、自分を愛するということなのだ。
どうもヤマアラシのジレンマなんてやつが近いようにも思う。エヴァンゲリオンではないか。たしかにこの友人もエヴァらしいやつなのかもしれない。厄介なやつなのだ。そして、なお厄介なのは、もし仮に「厄介なやつなのだ」と伝えた場合、そのまま「厄介なやつ」と受け止めようとする節があることだ。文脈全体から推察される感情ではなく、引っかかる言葉から浮かぶ負の感情に引っ張られがちなわけだ。
正直なところ、カウンセリングでも受けたらどうかとは思うのだが、当人にとってカウンセリングというのはあまり良い印象がないのかもしれない。風邪を治すような感覚で構わないと思うのだが、無駄な出費だとか、自らを狂人と確定させてしまうだとか、あるいは、自分自身に何の落ち度もなく健康的だとか、様々な思いから決してカウンセリングを受けることはないだろう。決してだ。しかし、実際のところ、方々で困っているところもあるわけで、他者が困るということは、なんらかの障害が起きていると捉えたほうが良いのではなかろうか。などと、考える。別にこの友人が勢い余って死んだところで、それはそれとして仕方ない結果でしかないのだが、生きている以上は老婆心も出てくるものだろう。
といっても、そろそろ、面倒になってきた。

雑記「エゴ」

問題の当事者はやはり問題を語ることで精算されようとするものだろうか、などと、訳の分からないことを考えたりしている。つまり、魅力的なブログはやはりその人物の生々しさがあるように感じられるが、得てして、そのようなブログは現状も当人のパーソナルな問題が解決されていないのではなかろうか、と考えたのだ。
どこをどう探していたのか忘れたが、あるブログでヌードデッサンの話があった。ブログに信ぴょう性を求めても仕方ないので何となく見てみたが、やはり投稿日の間隔や内容からすると、なかなか面白いことを書いていると思った。とはいえ、やはり全体的には不健康な話が続いているように感じた。これはその方の生活環境の問題だろうし、ある程度人は似た要素を持つ人と関わりがちだと思うので、僕がどのように感じたところで仕方ない話であるのだが、とはいえ快楽のための刹那的な生き方というのは、程度はどうあれ、あまり好ましい気持ちにはなれない。
しかし、どうして好ましい気持ちになれないのかというのもまた、僕自身のパーソナルの問題に違いない。結局のところ、あまりにも理解できないので不愉快になっているだけなのだ。良い悪いという意味では、僕にとっては悪いというエゴに過ぎない。
前回の記事でも触れたような気がするが、多くの人は自己陶酔しなければならない時期があるのだろう。僕はそれが不愉快になりつつも、自分自身もまた何も変わらず、やはりひどく陶酔することがあると自覚せざるを得ない。不愉快、と書くと、語弊があるのかもしれない。あるいは、若さだとか、脳みその混乱、価値体系の破壊? 様々な言いようはあるが、結局、人生は破壊と再生の繰り返しだと感じる。その波があればこそ、作品は生み出されるわけで。芸術を愛するというのは、エゴを愛することでもあるのだろう。

雑記「矛盾」

*多分先週書いた記事

人は早々変わらないものだと思っているが、何故なのかと尋ねられると、うまく答えられそうもない。少なくとも、自分は色々な経験をしてきたと感じているが、それでも根本の部分はそう変わっていないような気もする。我慢するかどうかの判断はするようになったと思うし、文学に価値を置くというのも後発的に得られたもので、やはり人生に大きな影響を与えてきたと思う。
変わらないというのは、元来の性格の部分だと考えている。僕は人の発言に矛盾を感じると(もちろん、だからと言って僕が矛盾しないわけではない。ただ、意見を述べようとするときなどは、せめてその会話中に矛盾を起こさないでもらいたいと思う)、矛盾の意図を考えようとする。僕はそれほど他人の事情に首を突っ込みたいのでもないので、単純にその矛盾の意図に強い自己愛だとかが関わっていると考えがちだ。自己愛が強い人の場合、会話を続けても肯定感を他者に求めているに過ぎないので、相手の自慰行為に延々と付き合わされるような感覚になる。それが苛立つのだろう。もちろん、本人の中では矛盾していないつもりでいる、という場合もある。この場合は、相手の価値観を聞いてみると面白かったりもする。
こういうことをことを書くのも、つくづく僕にしてみれば、どうかしている話を最近聞かされがちだからだ。要するに愚痴というわけだ。

ワクチンを打ち、副作用で寝込む。その間に久々に軽く『屋根の上のサワン』を読む。思えば、このサワンにおける主人公「私」も自分に必死な状態ではあるのだが、あくまでも必至に振る舞おうとする様子を意識的に語っているあたり、とても冷静な調子だ。一人称の面白さというのは、結局この一人称がどのような人間を演じているのかにあるわけで、昨今の分かりやすいブームとは真逆の分野なのかもしれない。

感想「シン・エヴァンゲリオン」

シンエヴァは見終わってなんとも言えない気持ちになった。直近に観た作品がターンエーやGレコなわけだが、それと比べると、ノリが全く異なるものだった。良い悪いというよりも、楽しみ方が異なるのだろうと思った。単純な好みで言えば、特に何とも思わなかった。「なんとも言えない気持ち」というのも、この無味無臭な印象のせいだ。とはいえ、二時間半をそれほどダレずに観れたので、良い作品なんだろうと思う。
本作を考察できるほど良い鑑賞者にはなれないが、少なくとも、シンエヴァはメタを絡めようとしていた。このメタは主に演出の面で強く現れており、そのまま成長物語に繋がっている。メタ意識は俯瞰的に物事を捉えようとすることと同じだと思うので、主人公を最終的に成長させようとするなら(かつ、求められているエヴァンゲリオン感を出すとすれば)、こうした演出は必要だったのだろうと思う。この成長を観客にも促すために説明的な会話が多かったのだ、と考えるのはやりすぎな気もするが(これまであまりにも設定の謎を盛り過ぎた結果とも受け取れるからだ)、どちらにせよ、エヴァを終わらせるつもりなのだろうと思った。
私小説的な評価をされがちな理由も、なんとなく理解できた。というのも、良くも悪くもメタの部分が「映画」あるいは「アニメ」という虚構を意識させ、その作り手も意識せざるを得ないからだ。この点は、僕は庵野秀明エヴァンゲリオンの熱狂的なファンではないので割と気にならなかった。
逆に気になったのは台詞回しだ。本作の会話は説明が多く、良く言えば、観客に配慮していた。ただ、悪く言えば、リアルさに欠けている印象を受けた。(※何も知らないシンジに村のシステムを説明する場面などは、シンジと客の知識が同等なので、それほど違和感なく楽しめた)これは説明だけでなく、全体的に繰り返される言い回しにも感じた。セルフパロディな言い回しも多かったので、その辺も少し恥ずかしくなった。ループというのが作中の要素にありそうだったので、それを意識したということかもしれない。また、前半は少し説教臭く感じた。
後半部になると、台詞以外にも細かなツッコミどころは多いのだが、前半部ですでに本作がリアルさを軸に置かれていないものだと感じたので、派手な演出になんとなくすげえなぁぐらいの楽しみ方をした。ヘルシングやゲッターを観た時と似たような感覚だ。細かいことはともかく、盛り上がれば全て良しという具合だった。それで二時間半だれずに観れたのだから、十分面白かったのだろう。
本作をどのような感覚で楽しめば良いのかが、どうにも難しく感じた。旧劇の方が緊張感や映像は好みだが、その好みも観た当時の精神状態が影響していたのかもしれない。それに新劇は「旧劇の後に作られた」ことを抜きに鑑賞することはできないので、旧劇で受けた衝撃を抜きに評価することも難しい。何より難しいと感じたのは、本作をエンタメとして観るか、芸術として観るかだった。台詞回しや心理描写はあくまでもエンタメだが、映像の面白さは芸術なのか? などと適当に書いてみたが、ある程度観客側が想像しなくてはならないような細かな台詞回しはあまりなかったので、基本的にはエンタメなのだと思った。
元々「エヴァンゲリオン」の何が面白かったかを振り返ると、ハッタリを効かせて盛り上げるところや、エログロや、なんだかんだ成長物語に持っていく簡潔さなどだろうか。そういう意味で、今回もそれほど大きくは変わらなかったような気もする。さすがに慣れてきたのかもしれない。

雑記「グレー」

もしかすると、知能指数に問題があるほど(厳密にはグレーゾーンと言われる類ほど)本能的な部分が強まるのかもしれないと思った。この本能というのは、三大欲求についてというよりも、自尊心のことなのだが、他者との比較によって、自己確立を目指そうとする傾向が強そうだと思った。
大学生の頃のいわゆる後輩と呼べる人にも、似たような傾向があった。その方は劣等感が強く、その劣等感を小説にすることで自己確立を果たそうとしていたようだが、その内容は成功者や親族への嫉妬や憎しみ、あるいは、社会的弱者である自分をひたすら説明するという、あまり面白みのあるものではなかった。感情が先行されすぎていて、というほどではないまでも、あまり文学的に技巧や表現を細かくすることもできなかった。ただ、自分を受け入れて欲しいという思いだけが一貫して作中に現れていた。
その方はそれまでの様子を見たり聞いたりした限り、また、作品の質を考える限り、どうやらパーソナリティ障害だったように思う。あまりいい噂は聞かなかったものの、例えば、自殺でもされたら教授方が可哀想ではないか、と思ったので少し面倒を見ることもあったが、連絡先を消しては戻すなどの若気の至りが目に余るので、結局自然と連絡を取らなくなった。僕はそうした様子が、文学に無礼だと思ったのだ。これはこれで大概だ。
と昔話を少し書いてみたが、似たような方と最近接している。この方は身体的に劣っていたり、体力的に劣っていたりする箇所が多いためなのか、やたらと人に自分が優れていることをアピールしようとする。「自分は良い服を買うが、他人はそこまで良い服を買わないために、自分はある意味生意気だ」などと言われるのだが、こうした時の反応はなかなか苦労する。話を聞かなければならない立場なので応対はするものの、下手に刺激してもいけないので流しておくのが無難なように感じている。
自己確立の方法というのも細かなことは分からないのだが、他者との比較は誰しもあることで、その比較がやがて無駄になるとか、比較しても自分は自分でしかないことを認めていけるようになるだとかが、自己確立への道なのかと思うのだが(他者との優劣という考えを超越していく必要があるのだろうか)、自分が他者との優劣によって確立されている方ほど、他人に依存したり、虚栄心が強まったりするような気がする。調べれば分かることなのだろうが、それはまたおいおいやろう。
ともかく、このような種類の方々は相手にするのが疲れる。何かと気を使うので精神をすり減らしがちだ。これが大学の後輩のような、簡単に縁を切れる方であればどうでもいいのだが(さくっと切れるのだから今は便利なものだ)、そうではない相手となると、また話は変わってくる。
僕は何となく、今の若い人たちがここまでとは言わないまでも、このような性質を持ちがちなのではないか思ったりする。SNSなんかのアピール合戦と同じことで、意図の見えやすさの違いぐらいしか変わらないような気もする。

雑記「なんぎなこと」

ファンタジー作品というものを厳密には書いたことがない。細かな定義は難しいものの、幻想とファンタジーは全く異なるものだと考えている。そもそも、どの部分で分類するかという意味でも、ファンタジーは舞台設定に終始するだろうし、幻想はより広範囲な意味合いを持つことだろう。現実を舞台としながらも怪異が出てくるだけで幻想となることもあれば、語り手が不思議な視点で物事を語りながらも同時に一人歩きし始めても幻想といえる。つまるところ、泉鏡花も幻想であれば、マジック・シュールレアリズムも幻想だ。
さて、ファンタジー作品を作ろうと考えたことはあるのだが、結局土台となる概念は既存のものに寄らざるを得ない問題が付き纏い、書く気もなくなっている。エンタメ作品を一つぐらいやってみたいと思っていたが、使われている設定を用いるというのはなかなか楽しく作れる気がしない。例えば、魔法というものがその世界に存在するとして、どの程度普及されているのか、また、普及の度合いによって文明がどの程度進んでいるのか、という問題がある。これがエンタメのお約束とでもいうのか、ビジュアルで好まれる作風だと度外視されていることも多い印象がある。
詳しい設定を知らないので印象の話にならざるを得ないが、例えば、ドラクエにおける文明の発達度合いは? つまり、火や氷や雷を出せるというのに、街は貧相なものだ。機械が必要ないとしても、その代わりとなるもの、魔法によってもう少しハイテクになりそうな気がするのだが。
スカイリムやウィッチャーなどは魔法自体が嫌われているので、生活する人々にとっては無縁なものとなっている。そうなると、魔法自体が小さなコミュニティでしか使われず、問題を起こしたくもないだろうから、貧困に苦しむ村が出てきても何もおかしくは感じない。貧困になるほど排他的になるということだろうか。
もちろん、このリアリティーの差でドラクエの方が劣っていると言いたいのではない。スカイリムやウィッチャーの方が好みには違いないが、ドラクエは細かな設定を省いた上で(デフォルメ? デフォルト?)、あくまでもプレイヤーを中心に世界が動いている。魔法はゲームシステム上の戦略性や利便性を高めるためのもの、ぐらいの認識なのかもしれない。ある意味、メタに近いかもしれない。
ただ、このデフォルメされた世界観というのは、文章では表現するのが難しそうだ。あくまで小説は受動的な(文章を追う)ものであって、能動的に楽しむことはできないので、こうした突っ込みどころと言える箇所は作品の粗に感じてしまう。幻想的、というよりもシンボリズムな作品であれば、こうした粗と思われそうなところも、一つの役割として捉えやすいのだが、そういう作品はエンタメにならない。頭をこねくり回しながら読むタイプのものだ。
また、最近考えたのは言語の問題だ。日本語でファンタジーを語るというのも、エンタメに慣れた方々すれば何とも思わないことだろうが、どうにも「日本語に訳されたもの」という体が欲しくなってしまう。これは僕があくまでも現実を土台として作品を考えるためなのだが、この辺もお約束として流されがちな問題だ。アニメなどは特にそのような傾向があるものの、人間をデフォルメしたデザインという意味では、例えば「アムロ・レイ」が日本語を喋っていようとまったく違和感がない。僕が慣れてしまったのかもしれないし、デフォルメされることで現実世界とは切り離されたものと認識されやすいのかもしれない。
とここまで書いてみたが、ハードルが高すぎるような気もしてきた。メタを意識しすぎると、虚構の約束事に疑問を呈していくことになるということだろうか。娯楽と芸術の違いは、メタの使い方や捉え方にあるのかもしれないなどと書いておこう。