彼の頭はつっかえた

なんか雑記ばかり書いてますが、一応掌編載せる予定です。

雑記13

笑いの本質は批判であると聞いたことがあるような、ないような、それとももう少し違ったか。ブラックジョークは皮肉に違いないが。

  ブラックジョークにも質の良し悪しがある。いわゆる短編アニメーションなどで資本主義を批判したものを見ても、何も面白くは感じない。そのままの意味以上のものがないだけならいいのだが、やりすぎると作者の正義を押し付けられている気分にさせられる。自分が正しいという感覚がなければ、なかなか活動的にもなれないものだが、鑑賞者側からすると(というよりも、僕からすると)押し付けがましい正義の裏に何があるのだろうと勘ぐってしまう。

  どのような思想性も経験から生じたものには違いないので、強い批判ができる人ほど、不幸や不満を社会問題に昇華させてきたのだろう。ほとんどの方が、何らかの不幸や不満を持つものなので、多かれ少なかれ賛同を得られるだろう。極論になるほど、不満を強く抱えた方には賛成を得られそうだ。実際は知らん。僕は集団が苦手なのだ。

  とはいえ、強い批判ができる要因はそれだけではない。昭和初期にプロレタリアートが流行して、学生のほとんどが左翼に傾倒したが、これは流行なので、周りとの一体感を楽しんでいたかもしれない。それもまた、周りと合わせた方が良いと考える経験があっての選択だ。何らかの不幸や不満を社会問題に昇華させようとしなくとも、強い批判はできそうなものだ。

  また、極論は目立つ。目立ちたい方々からすると極論も一つの商売道具だろう。嫌われることも計算のうちだ。勢いで吐き出す印象も強いものだが。

  僕は右ではないが、かといって、自分を信じることもできそうにない。

雑記12

カラマーゾフの兄弟』のイワンの話のせいか、いつしか「100の祈りよりも1つの奇跡」の方が、人間は信用するものだと思うようになった。僕は中学まで侍者をしていたので(神父の手伝いをする方々で子供が多い)よりイワンの話には感化されやすかったのかもしれない。とはいえ、『カラマーゾフの兄弟』を読んだのは7、8年ぐらい前の話だ。

  僕は無神論者だが、誰しも絶対的価値を求めるものなので(あるいは、判断基準となる絶対的な倫理観とでも言えるのだろうか)、宗教を否定する気はない。ただ、別に宗教ではなくても、誰もが同じように価値を定める物事はあるだろうという話だ。サンタクロースが実在しなくても、クリスマスの本質はプレゼントをもらうことにあるだろう?  

  日本の場合、無神論者というよりも無関心な方が多い。あるいは、新興宗教系に対しての得体の知れなさへの恐怖心もあるだろう。実際、テロや過度な勧誘などで良い印象を抱きにくいかもしれない。

  そのような背景もあってか、日本における絶対的な価値観はエンタメに比重が寄っているような気もする。いわゆる人気作品のファンの凶暴さは、一つの宗教戦争のようだ。そうなる気持ちも分からなくはない。好きなものが否定されて嬉しいと感じるには、否定するなりの、好きになるなりの論理が必要だろう。論理的な理由があるならば、相容れないと分かりきっているからだ。

  ただ、否定や好意を発信することが、理想主義的だと自己陶酔だ。例えば、人気の動画のコメント欄で、視聴者への注意喚起(信者になりすぎるのもいけないなど)したところで、そんなチラシの裏で君は何が言いたいのかという話になる。

雑記11

日本の近代文学史は意外とややこしい印象がある。基本的には純文学史であって、大衆文学のことではない。この違いがまずややこしい。大正昭和初期の作家なら、大抵文学史に出てくるかというとそうでもなかったりする。江戸川乱歩夢野久作文学史には出てこない。彼らは大衆文学だ。(夢野久作は単純にマイナーな気もするが)かといって、井伏鱒二梶井基次郎も新興芸術派に分類されるかどうかで、その新興芸術派にしても特定の思想があるわけではない。当時主流のプロレタリアート文学に反対した面々という話だ。

  ある程度共通の理論や思想の集まりでなければ「○○派」や「○○主義」は成立しないので、どうしても新興芸術派などは地味だ。同時期のプロレタリアート新感覚派の方が余程有名な印象がある。

  ただ、井伏鱒二の界隈は共通の理論があると思っている。牧野信一からなるファルス派とでも言いたいのだが。

  牧野信一と言えば、少し前にセンター試験で用いられた『地球儀』が有名だ。あの作品自体面白いものの、難問ということで嫌な印象を持つ人が多いかもしれない。スピンアトップスピンアトップスピンスピンスピンだ。

  僕は『父を売る子』がお気に入りだ。文字数の関係で紹介する余裕はないので、iBooksKindleなどで暇があればどうぞ。苦々しく笑える話だ。基本的に、牧野信一と親交があった作家はメタ的な意識が強い気もする。所詮妄想なので、詳細はWikipediaに任せる。

  と思いきや、Wikipediaに磯貝英夫氏の論文が軽く紹介されていた。同じようなことを考えている上により詳しいので、この記事は全くの無駄になってしまった。

雑記⑩

中立でいるというのは難しいが、かといって、極論はその人の劣等感や見識の狭さを露見されがちかもしれない。自分なりの「正しさ」は必要だと思うが、他者にその「正しさ」を伝える必要はない。色々な都合があっての「正しさ」でしかないので、誰もが酔っ払いの戯言とそう変わらないと思っている。

  ただ、自分の「正しさ」が人に理解にされると自信にもなるので、賛同される分にはその方が良いだろう。一々こんな内向的なことを書いていては、「明るくなれよ明るく」と田和安夫に言われかねない。

  酔いと言えば、僕はルバイヤートが好みだ。オマル・ハイヤームという方が書いた詩集で、ずいぶん昔に成立した作品だったと記憶している。1200年代だったか。詩の内容は一貫して、世の中の無意味さを伝えるものだったが、「全ては無意味なのだから、酒を飲み交わして酔っ払っていよう」みたいな内容だった。一度ツイッターに載せたら左翼系の方々に何かされて(リツイート?)、少し驚いた記憶がある。数年前の話だ。

  無意味さとは暗いものではあるが、同時に前を向く方法でもある。恨みや僻みから遠ざかることにもなる。無意味という前提から、新たな価値を見出すこともできる。あくまで、絶対的な価値の存在を否定しているだけだ。ただ、それでは生きていくことが大変なので、自分なりの絶対的な価値を見出していけばいい。僕にとっては小説がそれだ。

  このような考えも、境遇や経験に基づくものと同時に、虚構の影響も強い。僕がそういうものが好みだからか、それとも、そういうものに影響を受けたのかは分からないが、ロックや小説の根本的なテーマも大体こんなものだと思っている。

    

雑記⑨

お涙頂戴も一つの腕の見せ所なので、安易な手法と考えてはいけない。王道を王道通りに進めることは、なかなか苦労するに違いない。

  それに安易かどうかは置いておくとして、大体の作品は一見して予想できるようにも思う。実際にあるのかは知らないが『君が最後に恋した日』とかって題名はどうだ。なんかもう胃もたれしそうな物語に感じないか?  

  少し毒が出すぎたか。とはいえ、題名で胃もたれしそうなら、少しひねってみればどうだ。『君の臓物に包まりたい』なら、若年層のサブカルに受けるかもしれない。もちろんアニメ映画だ。三次元なんてダメダメ。化粧した男女よりも夢がある。

  少し毒が出たか。とはいえ、この物語は病弱な少女の物語なのである。さあ泣くがいいティーンエイジャー。ヒロインの死をもってあなた方の涙腺は刺激されるのだ。

  毒づいてはいるものの、別に僕はお涙頂戴に何とも思わない。見ることもなければ、見なければいけないわけでもないからだ。それに分かっていても良いものもある。結局、演出や脚本との相性が悪いだけなのだ。実写版デビルマンで泣ける人もいるだろう。

  だが、泣かせようとして泣かせることができるものもある。そのような作品は、かなり練られているに違いない。多くの人の涙腺を刺激するには、テーマの普遍性が必要だろう。どれだけ、鑑賞者の人生に共感させられるかが重要そうだ。僕も登場人物が最後には成長していく姿、というのにカタルシスを覚えがちだ。思いつくものだとウテナとか。

  そういえば、あまりにも自分のことを書いていない気がしてきたので、そもそも僕は何をしている人間なのか書いておきたい。梶井基次郎

  

雑記⑧

  世の中が暗いのか、それとも、暗いものばかり目につくだけなのか。考えてみれば、幸福よりも不幸な話の方が記憶に残りやすいかもしれない。物語の波の作り方としても、やはり不幸があると目的やテーマを定めやすくなる。人の不幸は蜜の味、とはよく言ったものだ。

  しかし、蜜の味にも様々あるように思う。例えば、他者との共感や賛同のために不幸が扱われている場合も多いだろう。SNSであらゆる情報が増幅されやすくなったと思うが、それは同時に世の中の不幸を強調させやすくなったと感じる。共感や賛同がしやすくなるということは、同時に幸福も不幸も広がりやすくなった気がするのだ。そして、不幸の方が盛り上がりやすいので、世の中がより暗く見えてくる、という話かもしれない。

  などと絵空事を書いてみたが、世の中が暗いか明るいかという基準が僕にはないので、やはりこれも僕の見ているものが暗いだけなのだという話になる。かといって、僕もまた例に漏れず不幸を好んでいるので、暗いからといってどうにかしようなどとは思わないのである。そういったことは、生命力に溢れた方々が好きにやってくれるだろう。

  僕の考えでは、表現者は作品で思想性を表現すれば良いと思っているものの、そもそも作品を手に取ってもらえるかどうかも分からないので、直接訴えた方が共感や賛同を得られやすいのかもしれない。とはいえ、本末転倒な気もするのだが。

  ただ、商業的に活動されている場合、作品で思想を表現するのは難しそうだ。生活よりも主義を優先するには、余裕だとか、投げやりだとか、いずれにせよ現在に不安がないからこそな気もする。まずは金、何にせよ金か。油田くれ。

    

雑記⑦

何かを「評価」する時、しばしば、その評価基準が絶対と考えがちだ。誰しも自分の審美眼を信じてみたくなるものだ。僕も気をつけなければならない。

  実際、「評価」は難しい。とりわけ、勝敗が明確に存在しない分野は、評価する側の思惑や経験に寄らざるを得ない。鑑賞者がそれを信じるかどうかは、評価者の権威や知識に寄りやすいからだ。例えば、何らかの賞を受賞した作品は一つの指標となるだろうし、知識が豊富な方の評価も一つの指標となるだろう。信じるかどうかではなく、信じやすいということだ。

  逆に、「感想」は楽だ。作品が面白いかつまらないかが重要で、後から理由をつけてやればいい。もちろん、質の良さを求めるものでもないので、基本的にはチラシの裏にでも書けばいい内容だ。

  案外、この「評価」と「感想」は混合しがちだ。「感想」はどこまで理由を求めても「感想」にしかならない。例えば、カードゲーム未経験者が様々な理由をつけてカードゲームをつまらないと言い出しても、それは「評価」ではなく「感想」でしかない。当たり屋のようなものだが、似たようなものはいくらでもある。

  そもそも、「評価」するには、その分野が好みである前提が必要かもしれない。僕は推理小説を読んでも、評価することはできない。ほぼ読んだことがないからだ。しかし、好きだからこそ、となると「評価」をできるまでの道のりは随分長くなる。ただ、権威者に従っておけば、楽に玄人は気取れるだろう。『美味しんぼ』など良い例だ。(『美味しんぼ』は好きだぞ)

  僕も「評価」などできない。分析して感想を述べるだけだ。作品に「絶対性」を求めようとすることが無茶なのだ。